Day17 鳥居本宿-高宮宿-愛知川宿-武佐宿 25km
宿泊地より鳥居本宿に戻り、まずは昨夕薄暗い中を歩いた道を車で徐行しながら見学。今日は出発前に朝食を済ませたこともあり、歩き始めたのは7時半を過ぎていた。中山道も残すところ45キロ、調子が良ければ1日で歩ける距離だ。今回は不調で距離が伸びていないため予定は延長、あと2日で歩き終える計画に変えた。当初予定通り歩こうと少々無理していた昨日までと違い、今日からは気が楽になった。
江戸中期から戦前まで、鳥居本宿の重要産業の一つに合羽製造があった。最盛期には10軒もの合羽製造業者が街道沿いに並んでいたという。写真は昔ながらの看板を掲げた元合羽製造所の松屋。
鳥居本宿を出るあたりからまた左ひざが痛くなってきた。結構きついが、予定距離が短くなったので気分的には楽に歩ける。道も国道ではなく車の少ない旧道で歩きやすい。
高宮宿は、武蔵の本庄宿に続く中山道第二の大きな宿場として大いに繁栄したという。多賀神社の門前町としても賑わったところで、街道沿いには多賀神社の大鳥居もたっている。江戸期から続く建物はあまりないようだが、古い街並みは趣きがある。提灯屋などが今も営業しているのが素晴らしい。
写真は旧本陣跡、表門だけは当時のものだという。
高宮宿と愛知川(えちがわ)宿の間にある豊郷は間の宿であった場所。ここにある豊郷小学校旧校舎は1937年の建築で、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造の校舎は、「白亜の殿堂」あるいは「東洋一の小学校」との異名を取ったという。校舎建て替え計画が発表された後、保存するかどうかですったもんだがあったようだが、今は保存され図書館などとして使われている。
豊郷小学校旧校舎の先には伊藤忠兵衛記念館がある。ここは、伊藤忠と丸紅の創業者初代伊藤忠兵衛の家であり、その息子で伊藤忠と丸紅を総合商社として発展させた2代目伊藤忠兵衛の生家である建物で、数々の資料とともに無料公開されている。140年ほど前に建てられたという建物もきれいに保存されているし、展示している資料も面白く、ここは長時間見入ってしまった。
愛知川宿も古い街並みが続いているが、江戸期のものはほとんどなさそう。写真は明治天皇が明治11年に2度も休憩したという竹平楼。江戸時代から続く料理旅館で、明治天皇の休憩された建物はその年の新築だったという。
愛知川宿を出てしばらく歩くと久しぶりに国道21号に合流する。国道沿いに吉野家があり、そこで昼食をとった。吉野家のすぐ先が愛知川。江戸時代の橋は有料のものが多く、1831年に無料の橋がここにできた時は皆喜んだという。橋のたもとの案内板は、「恵智川むちんばし」とのタイトルで、本文中には愛知川と衛知川の名が出てくる。呼び方は同じでも時代によって漢字は変遷してきたようである。
橋を渡ると道は再び国道と別れ、旧道になる。五個荘と呼ばれる地区で、ここが近江商人発祥の地だという。写真は江戸時代から呉服商として活躍した市田庄兵衛家で明治初期の建築。
この辺りでは茅葺の家も何件か残っており、昔ながらの雰囲気を醸し出している。
清水ヶ鼻の水は江戸時代から湖東3名水の一つとして知られてきたそうで、確かにうまかった。足の痛みが増しており、水を飲んでからしばらくここで休む。昨日歩いた醒ヶ井の水も湖東3名水の一つ。残る一つは彦根市西今町にある十王村の水である。
2度国道と交差したものの、基本的には旧道が続いたので歩きやすかった。武佐宿に入る手前で橋が工事中で迂回せよとの看板があったが、歩行者については書いていない。不親切だなと思いつつも、進んだが、結局歩行者は通れた。困ったことに、こういう車前提の看板が最近増えていると思う。
何とか本日の目的地武佐宿の入口に到着。宿を抜けたところで妻が待ているはずだったが、あまりにも膝が痛くなってしまい動けなくなり、大休止。休んだら何とか進めるようになり、歩きを再開。写真は明治18年建築の旧八幡警察署。
武佐宿本陣、ここも門のみ当時の姿をとどめている。この近くには旅籠中村屋という築200年の旅籠が近年まで営業していたというが2010年に火事で全焼してしまった。
どうにか本日も無事に歩き終えた。再び足が調子悪くなったので、また温泉に行くことに決めた。その前に車の荷室でまったり。
本日の距離 25km
中山道の合計距離 499 + 25 = 524km