Day16 赤坂宿-垂井宿-関ヶ原宿-今須宿-柏原宿-醒ヶ井宿-番場宿-鳥居本宿 32km
今朝は昨日よりも早起きが出来、6時45分には歩き始めることができた。温泉のおかげか、右股関節の痛みはほぼ消えている。しかし、左ひざの痛みは少しましになった程度で、完調には程遠い。とはいえ、歩くことが苦痛となっていた昨日に比べればずっと快適なスタートである。
50分ほど歩いて垂井宿に到着。垂井宿はぽつぽつと古い建物が残り、少しではあるが宿場町の雰囲気を残している。写真の建物は旅籠丸亀屋、看板によると200年ほど続いている旅籠で今なお営業しているとあったが、すでに営業は休止しているよう。1777年創業というから今も営業していれば240年近いはず。数年前までは営業を続けていたそうで、今年見学をした人の記録もネット上では見受けられた。営業を続けるのが無理であっても、こういう歴史ある建物はぜひ自治体で保存して見学できるようにして欲しいもの。
次の写真は小林家住宅主家で、幕末頃の建物。道路工事の際に玄関部分を削られて外観の変わってしまった丸亀屋に比べ、外観部分はずっと古そうに見える。
垂井宿を出て、東海道本線や国道21号線を越えたところに垂井の一里塚がある。中山道の一里塚で国史跡の指定を受けているのは、ここと東京の志村一里塚のみである。対で残っている志村と違いここは片側しか残っていないが、手前にある建物が昭和初期まで現役で賑わっていた茶所であることが貴重なのだ。ここで妻と合流し、朝食をとった。
一里塚を越えると間もなく関ヶ原町に入る。関ヶ原の合戦や壬申の乱の舞台となった地なので見どころ満載の町である。以前自転車で来た折に一通りは見学しているので、今回は中山道沿いのみとする。最初にあったのが山之内一豊の陣地、そして徳川家康最初陣地の桃配山。ここは中山道から少し戻ることになるが有名どころなので訪れてみた。
関ヶ原宿自体にはさほど古い建物は残っておらず、脇本陣の門があるくらいで素通り。関ヶ原宿を出てすぐに古代三関のひとつ不破の関がある。672年に発生した壬申の乱の舞台はこの辺りが中心で、関所が設けられたのはその翌年のことである。
関ヶ原宿と今須宿の間に設けられた間の宿の立場。明治初期の修築だそう。
都一の美女といわれた常盤御前の墓が道中にあった。源義朝の愛妾であった常盤御前は、東国に走った息子牛若(義経)の身を案じ後を追ったが、この地で盗賊に襲われて亡くなったといわれている。
今須宿は美濃の国最後の宿場町。写真は江戸時代に人や馬の継ぎ立てを行った問屋場(といやば)。当時のままで残っているのは美濃16宿ではここだけだそう。
岐阜県と滋賀県の県境は、伊勢湾へ流れる水系と大阪湾へ流れる水系の分水界のはず。景色も山に囲まれており、当然峠状になってると思っていたが、さして道は登らずに県境に到着。県境は水路になっており、あれ? この水はどっちに流れるの?
柏原駅で昼食の後、柏原宿を歩く。古い建物がいくつか見られるが、説明板は、本陣跡、問屋場跡、脇本陣跡などとなっており、現存する建物の説明は映画監督吉村公三郎(1911-2000)の実家くらい。現存する建物の歴史はよく分からない。写真の建物にある看板が本陣跡。
午後になると膝の痛みが増してきて、またも歩みが遅くなり、徒歩旅の人に抜かされた。途中、旧道が車道から外れる場所があり、そこには獣害防止用の柵があり、入り口が開かず一苦労。廃墟の様なホテル脇を通ったりしながら進んでようやく醒ヶ井宿に到着。ここは観光客だらけでびっくりである。先に来て待っていた妻によると私の着く前は観光バスがいっぱい停まっており、もっとすごかったとか。妻籠宿や馬籠宿は以前から観光地として有名だったが、ここも観光地として名を馳せているのか。存在は知っていたが、本当に驚いた。宿内を清水が流れており、名水の里として売り出しているようだ。見応えはあるが、観光地で足を引きずって歩くのは気恥ずかしかった。
番場宿到着が16時半頃、すでに夕焼けの時間となっている。歩くペースが遅いのもあるが、距離が伸びないのは日が短いことも原因の一つだろう。写真はまた問屋場跡。この宿も建物の説明はあまりない。
本日の終点は鳥居本宿。国道から宿内に入ると古い建物が連なり、趣きのある宿だ。18時前となるともう建物には灯りがともり、店も閉じている。写真は明日車で来て撮り直せば良いなと考えながら、待ち合わせ場所にした駅へ向かった。
本日の距離 32km
中山道の合計距離 467 + 32 = 499km