Day11 下北条駅-長瀬宿-橋津宿-泊宿-青屋宿-母木宿-鳥取宿-鳥取駅前 54㎞
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地図**
昨夜は倉吉駅前のホテルに泊まり、始発列車で下北条駅に戻ってきた。スタートは5時25分、まだ街灯のついている時間だ。500メートルほど歩いて、山陰道に戻る。ここから1時間ほどは車の少ない田舎道を歩く。特に街道らしい雰囲気もない道だ。畑地が広がっているが、砂地なので大変そうだなと思う。
天神川の渡しはなくなっているので、国道バイパスの新天神川まで迂回する。
土手道を歩き、昔の渡しのあった辺りまで戻って東に進むと長瀬宿だ。道幅は細く、昔のままの部分が多いが、建物は昭和の建物が多い。街道から200メートルほど南に国道179号が並行しており、そこにはコンビニが何軒かある。朝食がまだなので寄り道。しかし、一番近いと思って向かったコンビニはグーグルマップの場所が間違っており、そこには何もなし。仕方なく、国道を少し進んで別のコンビニで朝食をとる。
橋津川を渡ると橋津(はしづ)宿となる。ここは由良宿同様に鳥取藩の藩倉が置かれていた。3軒現存する藩倉の中で最も古いのが写真の三十間北蔵だ。1808年の絵図に描かれている建物なので、210年以上前の建物であることは間違いない。石の上に乗った建物の基礎が横木なのが珍しく、建物の床下を思わず覗く。
橋津宿は小高い山と橋津川に挟まれた狭い町で、その山中には橋津古墳群と呼ばれる古墳がある。入口階段前で登るかどうか迷ってスマートフォンで調べたところ、確認されているだけでも24基残っているという。これはまたの機会に時間をかけて見に来たいなと考え、登るのは止めた。
橋津集落に続く宇野集落には、因幡の名水として有名で、平成の名水100選にも選ばれた宇野地蔵ダキがある。ここで水を飲みひと休み、ボトルの水も詰替た。
さて、出発と30メートルも歩くと、あれ? 事前に写真で見ていた宇野地蔵ダキがある。先ほどのは何だったのか? 同じ崖からの湧水ではある。飲んでみたら同じ味なのでボトルの水を詰替えるまではせず。宇野地蔵ダキは名前から分かるようにお地蔵さんがある場所だ。先ほどの水場は宇野神社のある場所。宗教的に使い辛い人がいて分けているのだろうか?
宇野の集落を抜けると旧道は海際を走る国道9号と合流する。海上には昔から亀石として知られる亀が首を延ばしたような石が見える。昔話に出てくる場所ということなので、この首を延ばしたような岩はずっと海蝕耐えて残ってきたということだ。
山菜の季節なので今日は何度も山菜を探している人を見かけた。この家ではこごみを干していたし、途中でタラの芽が落ちているのも見た。山菜好きなので道からそれたい気もするが、ここは我慢。
泊(とまり)宿は伝統家屋が多く、宿場らしい町並みが続いた。この辺りから再びJR山陰と旧山陰道は近くなる。
石脇の浜から小浜港までは旧道が消えおり、国道を迂回するしかないように地図では見えたが、海辺の松林の中に歩けそうな道が見える。途中で行けなくなって戻るのは嫌だが、いざとなったら砂浜に降りれば進めそうなので、この道を進む。最後の出口だけ藪だったが、無事にこの道を抜けて、計画よりもちょっとだけショートカットができた。
鳥取市の市境に到着。鳥取市は平成の大合併で因幡の国の西端までその市域に収めており、ここが伯耆の国と因幡の国の国境となっている。
国境近くは山が海際まで迫っており、小さな谷に集落はあるものの、基本的には海際の国道を進むことになる。晴れてきれいな日本海は久しぶりかも。
青谷(あおや)宿は食事処もある賑やかな町だ。大きなスーパーマーケットで弁当を買い、桜を見ながらランチ。
青谷宿は街並みに趣があり、良い感じの宿場だ。
宿場らしい雰囲気の場所を抜けた先の左手に石碑が見えた。民家の向こうで看板が良く見えないが、代官の文字が見える。気になったので少し戻って、石碑を見に行く。甘藷代官彰徳碑(かんしょだいかんしょうとくひ)だ。江戸時代中期、享保大飢饉の時に、サツマイモを導入し民衆を救った石見大森銀山の代官を称える碑である。石見の国を歩いている時には何度か同じようなものを見て、徒歩旅の日記にも書いた覚えがある。石見だけでなく、出雲、伯耆を越え、因幡の国にまでサツマイモで民衆を救った代官だったとは驚きだ。
青谷からひと山越えて海に出る場所は魚見台と呼ばれる絶景のポイントだ。空気が澄んでいれば鳥取砂丘の方まで見えるということだが、この日は鳥取市街地の手前にある白兎海岸付近くらいまでしか分からなかった。
魚見台からの道も失われており、国道を進むということだったが、古い道が再整備され、下に見えていた船磯集落までまっすぐ降りることができた。
船越からまた一つ峠を越えると見晴らし台があり、浜村温泉の方に続く街道筋がまっすぐに見える。ここからも下りは迂回だと思っていたが、道が続いており、まっすぐに降りる。
街道から200メートルほど南に浜村温泉の足湯があるので、立ち寄って足を癒す。途中で足湯に入るとかえって歩けなくなるかとも考えたが、うまくリフレッシュできたようで足の痛みは和らぎ、この後は少し歩きやすくなったように思う
浜村からまたひと山越えた辺りが宝木である。たからぎと読むのかと思っていたら、ほうぎと読む。そしてここが母木宿だった場所だ。これもははぎだと思っていたら、ほうぎと読むのだそう。地名の漢字を明治初期に置き換えただけなのだ。母木宿に入る手前に橋があり、その歩道の路面にまたフクロウの絵があった。そして「またね」といっている。今から町の中心なのに・・・
母木を過ぎると再び山越え。峠を越えると大きな池が見える。水尻池だ。湖の北側を街道は通っていたが、江戸時代には湖を渡る渡し船もあったそう。大正時代から干拓が行われ、一時は一面水田になっていたそうだが、今は元の姿に戻っている。
最後のひと山を越えるといよいよ鳥取平野で、鳥取の市街地まではもうそれほどアップダウンはない。鳥取平野に入ったところに道の駅神話の里、白うさぎがあり、そこで休憩。その先にハマナスの自生南限がある。訪れて看板をよく見ると少し西の大山町や島根県の大田市と並んでの南限なのだとある。大山町は微妙だが、大田市は明らかにここより南で、南限を自称しちゃあだめだろうと思った。
鳥取医療センターの前で休憩し、どこまで歩くかを悩む。今夜のホテルは鳥取駅前、山陰道を歩いて最後にそれるとなるとあと10キロくらい。真っ暗な中かなり歩くことになる。一駅手前の湖山駅からJRを使うというのが当初の予定で、そこまでならあと3キロ、余裕で明るい時間に着ける。すでに44キロ歩いておりあと10キロは辛いなというのもあって、湖山駅までと決めた。街中に入ってくると古い屋敷風な建物が増えてきて、こういう道は明るい時間が良いなというのもある。
18時前に湖山駅への分岐に到着。止めようと思ってから足が軽くなり、なんだか歩けそうな気分になっている。鳥取駅付近の食事場所を調べたが、飲み屋ばかりでこれといったところがない。このまま行こうと気が変わり、歩きだす。しかし、ここからの旧街道とされる道は、道幅が広く、古い建物は全く見当たらない都会の道だ。それならレストランが並んでいる道に出てしまおうとルートを変える。最初は回転ずしに行くつもりだったのに、米子でも入ったとんかつチェーンが先に目に入り、入る。
夕食を終え、店を出ると真っ暗だ。強い追い風が吹いており、自然と小走りに進めた。千代川を渡って鳥取宿に入ると風は止んでしまったが、残り2キロほど。
お寺の前に荒木又右衛門墓所という碑があった。日本三大仇討ちの一つとされる仇討の主役である荒木又右衛門の墓があるということだ。
20時、予定通り鳥取の宿に到着。久しぶりの50キロ越えでさすがに疲れた。