Day8 津幡-竹橋-倶利伽羅峠-今石動-福岡-立野-高岡 37㎞
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地図**
5時に起床。昨日歩く予定はホテル予約した時にはなく、泊まったのは前回北陸街道から離れた地点近くで、駅まで1.3キロ歩かなくてはならない。天気予報は晴れだったのに、雨が降っている。ぐずぐずしてしまい予定よりも一本遅い列車に乗って津幡駅に戻る。
スタートは6時15分、すでに明るくなっていたが一応日の出時刻よりも前。雨は止んでおり、ほっとする。20分ほど北に進むと津幡川があり、それを渡ると旧北陸道は右折する。この辺りが津幡宿の中心部だが、さびれた昭和の商店街で、宿場町を思い起こさせるものは見当たらない。町外れに来てようやく古い伝統家屋が見えるようになる。
平地が終わり、坂を上る途中の右側に急階段があり、猪塚とある。切り開いてできた道路から一段高いところなので、昔の道の高さかなと思い登ってみる。
250年ほど前の安永年間に大雪が続き、飢えた猪が作物を荒らし回った。その時に大規模な駆除作戦を行い数千頭の猪を駆除したという。その時、駆除の証拠に猪のしっぽを集め、一本につき米一升の褒美があったそうだが、これは現在住んでいる地区で駆除も証拠にしっぽを提出し害獣駆除の奨励金を出しており、同じ方式で驚いた。猪塚は集めたしっぽを埋めて供養したもの。
道路拡張の折に塚の場所は移されたそうで、この高さに旧道があったわけではなかった。
竹橋宿の入り口近くに、道の駅倶利伽羅源平の郷がある。もし前回金沢で中断せずに歩いていたら泊まるはずだった場所で温泉もあるが、まだ朝早いので入らずに休憩しただけ。
竹橋宿を過ぎると今回唯一車の通れない道を歩くことになる倶利伽羅峠越えとなる。グーグルマップにはない道で、分かるかどうか心配していたが、看板が要所要所にあり、整備されて予想外に歩きやすい道であった。とはいえ、一部は明け方の雨でドロドロだし、猪に掘り返されてガタガタになっている部分もある。
龍ヶ峰城跡のあたりからは車道に合流し、さらに登っていくと集落にもなっている。もうすぐ峠というところで車道が分岐しており、その先に古道入り口があるという看板があった。旧北陸道はそちらの方向ではないはずだが、古道というのはなんだろう。他に看板はないし、尋ねるべき人もいない。仕方ないので一休みし、スマホで検索する。この古道は源平合戦のころから記録にある道だが、当時から間道の一つ。旧北陸道は直進であっている。スマホがなければどちらが進むべき道か確認できず困っていたはず。便利な時代になったものだ。
倶利伽羅峠のすぐ手前に木製の鳥居があり、その先に急階段が続いている。石川県と富山県の県境に位置する国見山(標高277メートル)に続く石段だ。
国見山の頂上には倶利伽羅権現石殿がある。1677年に当時の加賀藩主が建立したものだ。
頂上からの景色を期待していたが、霞んでいて北アルプスは見えない。
国見山から下りたところが倶利伽羅峠で、加賀の国と越中の国の国境、今でいう石川県と富山県の県境である。150メートルほど下った場所に富山県側の展望台がある。車道に並行し、旧道が残るが短いながらも趣のある道だった。
ここから見える高原地帯が、1183年に繰り広げられた源平倶利伽羅合戦の舞台である。峠側の有利な位置に陣取っていた平家軍だが、先ほどの古道から迂回した源氏軍と下から攻め上った源氏本隊に挟み撃ちされ、敗退したという。
ここから本格的な下り道が始まる。ここまで何度も熊に注意の看板はあったが、ここで初めてスズメバチに注意の看板を見る。以前ならこのような看板を見るとビビっていたが、今は熊もスズメバチも普通に家に来るような場所に住んでいるので、あまり恐怖は感じない。イラストがよく見るスズメバチに似てないななどと馬鹿なことを考えながら進む。
峠の茶屋があった場所には木製の牛がいた。江戸時代から昭和34年までここに茶屋が開かれており、牛のいる小屋には昭和12年の頃の写真や最後の店主の談話など展示されていた。
道の整備はされているが、一か所だけ大木が倒れたまま処理されていない場所があった。
山道を終え、平地に出てくるとほっとする。既に11時20分。山道だったとはいえ、まだ今日は宿までの3分の1ほどしか進んでいない。明るい時間に着くのは既に難しくなっている。
小矢部市埴生(はにゅう)の辺りは宿場ではないが、古くから倶利伽羅峠麓の町として賑わっており、古い建物が多く残っている。
埴生にある医王院は慶雲3年(706年)に創立され由緒ある寺院である。山門の仁王像は、倶利伽羅峠にある長楽寺から明治2年に移転祭祀されたもので、鎌倉時代から室町時代に制作されたもの。この仁王像の洞内より、慶⻑3年(1598年)に「源頼朝寄進状」(直筆)が発見されている。
北陸新幹線の線路手前に本日初めてのコンビニがあり、ここで一休みし、昼食をとる。
新幹線の線路をくぐり、あいの風とやま鉄道の線路をくぐる地下道入り口が見えるあたりに、砂川橋一里塚跡がある。小さな公園になっており、一休みしやすそうな場所だが、休んだばかりなので先に進む。
地下道をくぐると石動(いするぎ)で、江戸時代は今石動(いまいするぎ)宿として栄えた宿場町だ。この辺りでは庭木の冬支度で、雪つりをしている庭がチラホラある。毎年きれいにするのは大変だろうとついつい思ってしまう。
今石動には古い伝統家屋がチラホラ残っているが、これまでに見かけた記憶のない構造が目に付いた。
一階部分の軒上に瓦がない・・・。たまたまかと思ったが、この後の宿場町で何度もこういう構造を見た。
2階が蔵みたいな構造で、1階は住居の構造も珍しい気がする。
次の福岡宿に着いたのが15時頃。昭和6年建造の商家が民俗資料館になっており、見ようと思っていたが、月火は定休日で見れなかった。
福岡宿の先、大野地区には江戸時代の松並木が昭和の頃まで残っており、旧北陸道の往還松として知られていたが、次々と枯れてしまい、平成15年に最後まで残った松も枯れてしまった。その後植林され、今は松並木があるが、まだまだ細い若木で見応えはない。
残りもう数キロのところで真っ暗となってしまったので、ゆっくりと夕食をとる。
高岡市街の見どころは何か所もあるが、中でも人気の山町筋重要伝統的建造物群保存地区が、旧北陸道沿いにとなっている。伝統家屋の連なる街道をのんびり見ながら歩を進める。
本日の宿は市街の中心部に新しくできたゲストハウスで非常にきれい。新しいロンリープラネッツがそろっており、時間があればゆっくり見たいところだ。
本日の距離 37km
北陸道の合計距離 252km