Day17 西新町-明石-大蔵谷-兵庫-芦屋 37km
今日は実家からそのままスタート出来、しかも日の長い5月とあって、歩く時間はたっぷりある。何度も通っている道なので見学に時間を割く必要もない。当初は久しぶりに一日の最長歩行距離更新にトライしようかなどと考えていた。しかし、昨日雨の中を歩いたために両足裏にマメができている。朝起きて足の痛みを確認した時点で記録更新は素直にあきらめた。とはいえ、計画通り早く起きたので、予定より1時間遅くはなったが、早朝5時20分に歩き出した。
昨日歩くのを終えた街道が東に曲がる地点から200mも歩くと明石川に出る。明石川のたもと、写真右側の木々に隠れているのが私の通った中学だ。
橋を渡ると明石。城下町なのでここもクランクがいくつかある。最初のクランク部分は道がなくなっているので今は歩けない。クランクだったはずの道の先に淡路島への船着き場が見える。
次のクランクが現在の明石のメイン道路ともいえる銀座通り。ここを少しだけ北に進み、再び曲がって東に街道は向きを変える。
飲み屋街を抜けて少し行くと子午線を示す案内板がある。歩いていても見逃しそうな小さなもので、何度もここを通っている私も初めて気が付いた。
先ほどの案内板の少し先に、明治時代に建てられた子午線を示す石柱がある。世界の標準時が定められたのが明治17年、日本がその決定に基づいて東経135度の時間を日本の標準時としたのが明治21年のこと。その東経135度の子午線が明石を通っていることの重要性に気付いた小学校の先生たちが明治43年に自費でこの「子午線通過地識標」を建てたのだそう。新しい案内板のある正確な位置とのずれがかなりあり、測定精度の違いか、石柱を設置しやすい曲がり角をあえて選んだのか気になった。帰宅後ネットで調べたがこれは分からずじまい。
さらに歩くと大蔵市場。私が子供の頃は日本の色んな場所にあった小さな商店が並ぶ市場だ。もう何十年もこういう場所を見ていなかったはずなのに、明石市に入った最初の町土山と最後の町に残っているのに驚いた。この市場のある大蔵谷が山陽道の宿場町であり、明石の城下町は宿場となっていなかった。
明石市と神戸市の市境近くの海岸に大蔵海岸がある。まださして歩いていないが、足がやはり痛く、ここでひと休み。
さらに進んで明石海峡大橋のたもとへ。この辺りから見る橋と島と洋館の景色が好きで、橋が出来てからはここによく来ていた。
そのすぐ近くに見慣れない洋館、新しく移築されたものだ。旧武藤山治邸で、1907年の建築で、ここへの移築工事が開始されたのが2007年で公開が2010年だという。説明を読んで、もう10年もここに来ていなかったのだと改めて思った。
しばらく山陽道は国道2号と同じだが、垂水駅を過ぎた後、海側の公園内を歩いた。高校の頃から自転車で神戸や三宮まで行くことが多く、この辺りは何度も来ている。公園に入ったこともあるが、自転車禁止の歩道部分が多く、初めての場所がかなりある。国道上に何か残っている訳でもないのでここは少し街道からそれてみた。
山がさらに迫って、平地部分は国道とJRと山陽電鉄しかなくなってくるあたりが、播磨の国と摂津の国の国境。そしてその先にあるのが須磨浦公園である。幼い頃、毎年ここからロープウェイに乗って初日の出を見に来ていた。遠足などで来る場所でもある。源平一ノ谷合戦場があった歴史的な場所でもある。
足のマメがあまりに痛い。新たに水がたまり、範囲も広がっていたので、須磨浦公園で水を抜く。水を抜いてすぐに歩くのは辛いので、体は疲れていないが大休止。
須磨駅前で国道から離れるが、幅の広いバイパスのような道が続く。
中世から重要な港であった兵庫が、江戸末期まで神戸の中心であった。平安末期、ほんの数ヶ月ではあるが、日本の首都となった福原宮もすぐこの近く。江戸時代、兵庫津の行政機構は、岡方、南濱、北濱に3分されていた。岡方は濱(浜)に接しない町々を含めての総称で、行政機関である岡方惣会所があった。その場所には、昭和2年に建てられた石造りの建物があり、兵庫津歴史館・岡方倶楽部となっている。
神戸の町が大きくなったのは、慶応4年(1868)に外国人居留地が開かれたため。以降神戸は日本を代表する港町としてどんどん栄えた。神戸から元町、三宮にかけては、神戸市の繁華街であり、幼い頃から何度も訪れたところだ。神戸駅近くから三宮までずっとアーケード街で連なっている。神戸から元町にかけてのアーケード街は山陽道上に出来たもの。昔はいつ行っても混んでいたが、近年はここも寂れてきていた。それでもここ数年で盛り返したのか、今日は久しぶりに賑やかだ。
元町からのアーケードは少し北にあるが、山陽道はそのまま直進し、大丸の前を通り、左折する。この南北の部分は生田神社へと続く道である。ここから西宮までの山陽道は、本街道と浜街道に分かれている。どちらもこれといった歴史的なものは残っていないので、本街道を歩くことにする。生田神社の手前で元町三宮間のアーケード街と交差する。そこに大きな本屋がある。足が痛くてもう歩きたくないし、探したい本もあったので、本屋に入り、そこで小一時間過ごす。
三宮駅にある食堂で昼食。マメをかばって歩いたためか、他のところも何ヶ所か痛み出しており、ここで止めようかとも考えた。京都までは明石から100キロ弱、今日頑張っていれば、残り40キロで一日という計算だった。今日はここまでで20キロ以上歩いている。ここで止めても、頑張っても、もう残り2日に変わりはない。ただ天気が良いので、足さえ問題なければ、なるべく今日歩いておいた方が・・・となり、行けるところまで行くことにした。
三宮から先は、細くて旧道ぽい道なので、歩きやすい。場所によるが、山陽道は西国街道と呼ばれている地域の方が多く、兵庫県ではすべての看板が写真のように西国街道となっている。この看板を見ると道ははっきりしているかのようだが、ここから西宮までほぼまっすぐなはずなのに、実際には道が分からなくなるところが何ヶ所もあった。
街道であることを示す指標は少なく、街中の散歩しているような気分になってくる中、やっとあったのがこの一里橋。もとは一里塚があった場所である。
街道を遮る学校があり、ここは迂回せねばならないのだが、資料によってその先のルートが違っており、どちらに行くかここで悩んだ。
江戸時代、首から上の病気に霊験あらたかだったという地蔵がここにあった。これは大正6年に建立されたもので、くび地蔵と呼ばれている。
芦屋市に入ったのは18時前。休憩を入れれば12時間以上歩いていることになるので、芦屋で本日の歩きを終えることにする。
18時過ぎに芦屋駅到着。ペースは遅くなってしまったが、37キロ歩けたのでまずは満足。
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地図**
本日の距離 37km
山陽道の合計距離 521km