Day16 播磨高岡-姫路-御着-加古川-西新町 42km
山陽道の16日目、いよいよ小学生時代の通学路を歩く日だ。中学生になって、その道が京都から下関へと続く道だと知り、いつか歩いてみたいと思っていた。
前日は実家泊まり、朝一番の電車を乗り継ぎ播磨高岡駅へ向かう予定が、前夜から今年一番の大雨となる。11時頃には止むという予報だが、それまで待つと肝心の場所が日没後になってしまう。知っている道なので夜でも普通に歩けるが、できれば明るい時間が良い。予想到着時間を逆算し、予定よりも1時間遅い8時過ぎに播磨高岡駅到着。雨のピークは過ぎており、歩けないことはないので歩き始めた。
少し国道を歩くとすぐに道は旧道となり、車は来ないし、雨も小降りになり、一安心。
商店に播州弁の番付表が張ってある。私の生まれ育った明石も播州弁の地域であり、この姫路辺りとは若干異なる語彙もあるが、使ってきた言葉大半でニヤニヤしながら眺めた。故郷を歩いているのだという気持ちが高まり楽しくなる。
大きな城下町である姫路宿は、入り口から何度も道が直角に曲がるようになっている。防衛のためのクランクだ。おかげで山陽道がどこを通っていたのか分かり難く、事前に調べた地図を丁寧に見ながら歩かねば分からなくなる。看板や案内板が随所にあるが、それが資料の道と違うところにあるので、また困ってしまうのだ。最初に見えた看板は、姫路城の堀の前の道に立っていたが、資料では一つ手前の角を曲がるようになっている。資料通りに曲がったが、国道に出たところで道を渡れず、左折し信号機のある看板のあった道へ。ひとブロックだけその道を歩いたが、違う気がしたので、次のブロックで右折し、また資料にあった道で左折。この後、資料通りに3回曲がって、ようやく堀を渡って城門跡を通り、姫路宿内へ。中に入っても何度もクランクがある。最初の角は分かったが、次の角でミスってしまった。資料の角を過ぎてしまい、次の角に案内板があったので曲がるときに確認しなかったのだ。その道を進むと高札場のあった場所に出た。高札場は街道沿いにあるのが普通なので、この道が正しいと思ってさらに進む。そして詳しく書いた案内板に出た。地図も出ていたので、ここで資料の道と違うことが分かったが、よく読むと歩いている道が本来の山陽道であったよう。徳川家光時代の姫路城主が街道の一本北側にある堀のしゅんせつ工事をし、その時の泥を街道沿いに敷いたところ、道がどろどろのままで歩き難くなり、一本南の資料にある道を人々が通るようになったのだとか。
山陽道から見た姫路城。
そのまま古い方の道を進んでも良かったが、雨脚が強まったので、資料にある新しい道に入る。そちらはアーケード街になっており、雨が当たらないのだ。この後も何度も曲がって、京口門跡のところから姫路宿を出る。入るときと同じく、出た後もしばらくは何度かクランクがあった。市川を渡ると、現在の姫路の街を抜けた気分になる。国道を歩くのは市川の橋の部分だけで、交通量の少ない旧道が続くので、歩きやすい。しかし、雨は降り続けており、休憩をとるのにも困る。
姫路の次の宿場町とされる御着(ごちゃく)だが、御着本陣跡の案内板には間の宿であったと書かれていた。江戸時代の五街道に含まれていない山陽道は宿場の定義が定まっていなかったようで、これまでもこういう宿はいくつもあったが、実家の近くにもあるとは思わなかった。写真は本陣跡の向かいに残る小原家住宅(19世紀前期の建築)。
御着に入る辺りで雨が上がり、休憩時に靴下を替える。変えても無駄なくらい靴が中から濡れている。長距離歩く時に豆ができないようにする方法で一番私に効果があるのが、足をこまめに乾かすこと。休憩のつど、靴を脱いで足を乾かすようになってから豆が出来なくなっている。逆に言えば、今日は非常にまずい状態なのだ。いつもは2足しか持たない靴下を今日は4足持っていたが、これでは焼け石に水か。
石の宝殿で名高い宝殿には石切り場が目立つ山がいくつかある。「石の」が石切り場を指しているのだと長らく思い込んでいたが、生石(おうしこ)神社に神体として祭られている巨石が実際には石の宝殿である。見応えのある場所で、久しぶりに行きたいなと思ったが、街道からは離れている。
加古川は兵庫県最大の河川で、幼い頃から何度も来ている。
川を渡るとすぐに加古川宿となる。ここも中心部はアーケード街となっている。
街道歩きを始めた東海道の前半は土地の名物も気になり、少しは食べていた。しかし、街の名物でも有名な店が街道沿いにないことは多いし、昼食時にそこを通るとは限らない。食べられる時に食べておかねば食べるところも少ないし、疲れると塩分不足になるためか、味の濃いものを体が欲する。という訳で、名物は基本無視していたが、ここでは加古川名物かつめしを食べた。子供のころ何度も加古川に来ているのにかつめしが名物なんて聞いたことがなく、気になっていたのだ。かつめしの老舗の流れをくむ店が街道沿いにあり、ちょうど昼時になりそうだったので今日は狙っていた。地方都市のアーケード街といえば基本寂れており、加古川も例外ではなかったが、この店は込んでいた。
美味しくて、ボリュームも満点、サービスも良く、これは人気店になる訳だ。昭和20年代に始まったというかつめしの起源がテーブルのパンフレットにある。私が子供の頃からあったのだと感心する。このアーケード街も何度か来ているのに全く知らなかった。
アーケード街を出た辺りにある胴切れの地蔵。
なんとなく覚えのあるお寺があった。教信寺・・・、観光で立ち寄る場所でもないし、名前に記憶はない。かつめし屋でゆっくり休んだ後でまだ疲れていなかったが、記憶をたどろうとここでひと休み。地図を見ているといとこの家に近い。いとこと遊んだ場所なのか、法事があったのか、記憶は辿れなかった。
旧道沿いでは市境の看板がなく、気が付いたら明石市に入っていた。寂れた土山の商店街。
明石市に入ると宿場でもないところにぽつぽつと旧家があったりする。
大久保にある明治天皇が休んだという洋館。
西明石の駅前を過ぎ、和坂を下って行くと、通っていた小学校の校区へと入って行く。小学校は街道から2ブロック離れているが、ついでに見に行った。鉄棒や古タイヤの遊具がまだ残っており、びっくり! 古タイヤの数こそ減っていたが50年近く前の遊具が今も使われているとは!
小学校の辺りを過ぎると街道は小学校の頃の通学路と重なり、すぐに右折する。東西に延びているとばかり思っていた山陽道が南北の道であることが新鮮で、初めて古地図を見た時から山陽道が気になっていた。明石も城下町で、何ヶ所かクランクになっている。ただこの辺りは、城下町の外で、明治22年に明石が町制施行した折に吸収されるまでは王子村だったところだ。南北に延びている街道部分は西新町商店街として私が子供の頃は賑やかで、都市銀行の支店もあった。今はすっかり寂れ見る影もない。
山陽電車の西新町駅は昨年高架化が完了し、雰囲気が随分と変わった。
街道が左折し、再び東西の道となる角で、本日の歩きは終了し、実家へ。朝の雨で覚悟はしていたが、両足に豆が出来ており、明日の歩きに不安が残る。
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地図**
本日の距離 42km
山陽道の合計距離 484km