Day4 防府駅-宮市-富海-福川-徳山-徳山駅 29km
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地図**
徒歩旅4日目、今回も出発は始発列車である。ひと月前は真っ暗な中を走っていた始発列車であるが、今は家を出る時点ですでに明るい。いつもと同じ時間に家を出たのに、今回は駅に着いたのがなぜか早い。あれ?っと思ったが、良く考えると自転車のスピードが違うのだ。家から駅まで一方的なくだり道で、標高差が100mほどある。暗いときはブレーキを頻繁に使っていたが、明るいとほとんど使う必要がなく、今日は飛ばせたのだ。
防府駅到着は9時15分。駅前には種田山頭火の像がある。漂白の俳人として知られる山頭火はここ防府で生まれている。山口市内の湯田温泉にも住んだことがあり、湯田温泉にもたくさんの句碑があった。それまで名前しか知らなかった俳人であるが、湯田温泉を訪れた時にその面白さに気づき、興味を持った。本日は少し時間があるので、山陽道に戻る前に山頭火関連のものをいくつか見て歩くことにする。
山頭火の句碑があるために立ち寄った戎ヶ森公園の桜。
山頭火生家跡。何か残っているのかと思たら跡形もないところに句碑などを立てた新しい施設だった。
山頭火の小径。狭い路地であるが、山頭火の小学生の時の通学路で、山頭火の小径として整備している。
山頭火の小径の中ほどで先日歩いた道に出たので、そこから山陽道に戻る。宮市宿の中心部で古い建物もぽつぽつと残っている。
漁師町でもないのに魚の干物を作るかごがあり、不思議に思ったら、割烹料亭が向かいにあった。
宮市宿の本陣は、兄部家(こうべけ)という鎌倉時代からの旧家で、寛永19年(1642)に本陣に定められ、明治維新まで勤めていた。寛政元年(1789)大火により類焼後に再建された書院ほかの主要建物が平成23年(2011)まで残っており、国の指定史跡となっていた。写真で見る限り、築200年を越える建物は見事なものだ。残念ながら、5年前の火災で全焼し、今は門と土壁が残るのみ、寂しい。風呂の残り火で火災になったそうで、薪で風呂を焚いている我が家も気をつけねばと思う。
防府天満宮の大鳥居は、1629年に建てられたもので、石の鳥居としては山口県で最古にして最大の物。
1862年に寄進された狛犬は萩の石工が作ったもので、萩の狛犬と呼ばれている。京都北野の天満宮にも同様の狛犬が奉納されている。会津藩士が北野でその長州ゆかりの狛犬を倒そうとしたところ、突如の雷があり、天神様のたたりと逃げ去ったという逸話がある。
暁天楼は、幕末の頃にあった門前旅館の離れの建物で、漬物小屋に見せかけていた。しかし、その2階は勤王の志士たちが密議を交わしていた秘密の会合場所で、暁天楼と名付けたのは山形有朋。
推定樹齢800年の御神木。幹周5.6m、高さ27.5mの楠木。
茶室放鬆庵の中庭。
暁天楼の向かいにあった大専坊は、古くからあった宿坊。1557年に毛利元就はここを本拠とし大内義長を追放し、防長二国を掌握した。尊皇攘夷で激動した幕末には毛利藩志士の屯所となり諸国志士の往来も多かった史跡。写真は大専坊中庭の蘇鉄。
天満宮の入り口。
絵馬。
神事。
天満宮の裏手に広がる天神山の桜。種類が多く見とれてしまう。
1822年、藩主毛利斎煕の発願で五重塔の建立に取り掛かるが、未完成のまま50年の年月が流れる。明治6年(1873年)になって建設当初に完成していた塔の一部分を使って完成させたのが春風楼。
春風楼から見た防府の街。
急ぎ足の防府天満宮であったが、それでも30分以上滞在していた。山頭火の足跡をたどるのも予想以上の時間がかかっており、本日予定の場所まで歩けるかどうかあやしくなってきた。
国分寺は8世紀の聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、この白壁の美しい周防国分寺もその時から続く寺院である。
時間がなくなってきたので国分寺は素通りしようかと思ったが、何やら行事をやっており、立ち寄ることにした。入り口の仁王門は16世紀の建立。
18世紀に再建された本堂は金堂と呼ばれている大きな建物。
国分寺境内にある仏の足跡。海外では何度か見たが、日本で見たのは初めて。日本にも100前後はあるらしい。
国分寺を過ぎてしばらくすると国指定名勝の毛利氏庭園がある。桜の名所としても知られている。満開となった週末とあって、駐車場にはたくさんの車が並んでいたが、入ってしまうと今日は防府観光で終わってしまいそうなので素通り。すぐ近くには奈良時代の多々良大仏がある。こちらは必ず行くつもりだったのに気が急いてしまい見逃した。あとから写真を見るとやはり面白そうで、行けばよかった。
周防国衙は飛鳥奈良時代にあった周防国の役所で、850m四方もあったという。
防府の街外れにファミレスなどが集まった場所がある。そこから先はしばらくコンビニさえなく食事ができそうにないので、ここで昼食とする。時間節約でうどん屋の予定が、空腹でつい回転ずしに。さっと食べて出るつもりが、結局ゆっくりしてしまった。これで本日予定の櫛ヶ浜までは完全に行けなくなり、手前の徳山までさえ余裕はなくなった。
宮市宿と富海宿の間には浮野峠があり、その手前に浮野半宿がある。写真は徳地屋という大名の休憩所となっていた場所で、石柱は近くの山にあった社への道標。
峠道は未舗装で暗い山の中だが、車でも通れそうな道幅はある。初めて出てきた看板の指が示す方向に山道があった。看板の裏には何もないので、逆から来た人はここに出てきたらどちらに進むか分からないだろう。
入って行った山道は狭く、ほとんど人も歩いていない様子。途中で道が分かれており、そこには看板がない。地図を見る限り、そもそも最初の分岐らしきものがないのでどちらに進むべきか判別できなくて困った。道を間違えたと判断し、看板の場所まで戻る。改めて看板を見るが、やはり曲がれといってるように思う。地図を見ても現在地は不明。スマホのGPSをオンにしたが、山間のためか現在位置をつかまない。地図を見る限り広い方の道をずっと進むので看板を無視して進むことにした。すぐに地図にあった明治の道路改修記念碑に出た。直進で正解だったようだ。しかし、記念碑の説明をよく見ると今歩いた道は明治の初めに新しく開いた道で、江戸時代は先ほど進んだ道であったよう。そして再び合流するのが、このあたり。しかし、それらしき道にはロープが張ってあり、こちらからは進めないようにしてある。どこかで崩れているのかもしれないが、それなら先ほどの看板は?
一部だけだが江戸期の石畳も残っている。
山の中に茶臼山古戦場がある。大内氏再興の目指した大内輝弘が戦いに敗れ自害した場所である。
茶臼山は海に迫っているために、古来から交通の要所となってきた。写真に見えるように、現在の一番海側にはJR山陽本線、その陸側には明治10年に開通した旧国道、少し上に見えるトンネルのある道が昭和33年に開通した現在の国道2号線。歩いている山陽道は明治10年までの主要道だ。
茶臼山から富海宿へと下る急坂は橘坂と呼ばれている。それを登りきったところにあるこの岩に手をかけ旅人が景色を眺めたことから、この岩は手懸岩と名付けられた。
手懸け岩のあたりからみる富海の海岸。
富海宿を歩く前に海岸に出て一休み。
浮野半宿の看板には、富海宿と宮市宿のあいだの半宿が浮野とあった。しかし、ここ富海宿の本陣前にあった案内板には、宮市から福川本宿への途中の半宿とある。どうも山陽道は宿場の定義が確立していなかったようで、分かりにくい。
富海は古い建物も残り、趣きがある。
富海の町を離れてからも石垣と川の美しい風景が続き、歩いていて楽しい道だ。
富海から戸田(へた)へ行く途中にある椿峠近辺の数百メートルだけ国道2号線と合流し、歩きづらい。それが却って今日は旧道歩きが多く歩きやすい道が続いていることを思い出させた。
戸田地区にも古い建物がいくつかあった。写真のお宮は宮島様と呼ばれている。昭和63年と記された案内板に昭和10年頃までは池にはたくさんの亀がいたとあり、今はいないのだと思ったらたくさん亀がいた。案内板設置後すでに30年近く、誰かが放したものが増えたのだろう。
福川宿本陣跡。1838年に建てられた門が残っている。
福川宿と徳山宿の間にある富田も富田宿とされることが多いようだが、富田では本陣等の案内板には気付かず。古い建物の2階部分のしっくいに模様があり、嘉川で見たものを思い出した。この建物の模様は石をはめ込んであり、黒漆喰で描いた嘉川の物とは違う。
時間に余裕があるのを確認し、山崎八幡宮に上った。上から眺める周南市街は海側に並ぶ大きな工場が目立っている。
徳山の街は戦災で古い建物が残っていないので、街道歩きには面白みが欠ける。それでも国道ではない場所に旧道が続いているので歩きやすいのはありがたい。旧道が駅前に続いているのもうれしいが、駅前にコンビニ等がなかったらどうしようかと最後は不安に思いつつ歩いていた。駅に着く前にスーパーを見つけ、夕食と缶ビールを入手し一安心する。18時過ぎの列車に乗っても自宅最寄駅に着くのは22時を過ぎる。いつもはどこで夕食を買うかまで考えているが、今日は次の駅まで行く気満々だったので徳山駅周辺は調べてなかったのだ。しかし、心配していた徳山駅前は賑やかで、コンビニはおろか商店街まであった。そして駅構内にもセブンイレブン。追加で何か買おうかと思ってしまったがそこは我慢をし、列車に乗り込む。
本日の距離 29km
山陽道の合計距離 117km