Day2 長門峡-野坂峠-津和野宿-樫実峠-経世羅峠-鬼ケ峠-徳城峠-小瀬 45㎞
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地図**
山陰道の2日目は、前回歩き終えた長門峡駅前からのスタートとなる。すぐ近くの道の駅長門峡で車中泊していたので始発列車よりも早い5時55分に出発することが出来た。スタートしてすぐに旧道は国道から分岐し、細い田舎道となる。線路を渡ってすぐに鉄道マニアに有名な赤い鉄橋がある。ここは山口線で、定期的に蒸気機関車が運行しており、この鉄橋はポスターにも使われた撮影ポイントなのだそう。
朝もやの中をしばらく阿武川沿いに進んで行く。踏切を越えて国道9号に再合流すると道は登り坂になる。登り切った辺りの左側に渡川(わたりかわ)城跡登り口がある。この山城の頂上も蒸気機関車の撮影ポイントだと看板にある。そのまま進むと国道は線路の上を陸橋で越えていく。越えてから道を間違えたことに気がついた。陸橋の手前で線路に降りるためのような通路を進み、陸橋の下をくぐって進まねばならない。陸橋のために下に降りる旧道は消えているので、戻らずに強引に降りれないかと探ってみたが、無理。引き返してから陸橋の下をくぐる。下の道の高さに出たらイノシシの柵があり、そこはまたいで進む。知らずに逆から来たらここが道とは思えない場所だったので、逆からの写真を載せておく。道は写真の波板を越えて橋脚の右側で橋をくぐり、進む。
JR渡川駅のところで川を渡り、駅を越えて県道311号に出て、東に進む。この辺りは鉄道建設のために旧道が消えたそうなので、線路沿いの小道を進もうかと思ったが、進めなくなって戻るのが嫌で、解りやすい道を選んだ。県道と線路が近付いた辺りからは山陰道と道は重なっている。榎谷の集落のところで山陰道は県道から別れて川沿いに進む。江戸期の山陰道は一番川沿いの道だったようだが、集落は一本内側の道沿いとなる。意識せず内側の道に進んでしまったが、戻るほどの場所でもなさそうなので、ここはそのまま進んだ。
再び県道311号と合流し、JR三谷駅を過ぎると、今度は左側に旧道が分岐する。8時頃になってようやく朝もやが晴れてきた。
旧道は基本的に県道311号と重なるが、まっすぐ進む県道と違って、山際を迂回する部分も多い。桜の里の辺りでは山際どころか、かなりの高さまで道は登っている。江戸時代は水田優先なので、この辺りの家屋や道は水田の作れない場所に追いやられていたのだ。現在使われなくなって進めない旧道部分も多いが、進める道は出来るだけ進むようにする。誰も来ないような小道では竹の子が道の真ん中に顔を出していた。
関ヶ原の合戦以降山口でもキリスト教信者迫害が起こり、1604年に山口からこの辺りや萩方面に逃れていったのだという。旧阿東町(2010年に山口市編入)には隠れキリシタンの墓が数十基残されているということで、街道沿いに3基が移設されていた。
阿東町の徳佐は西日本では有数のリンゴ産地として知られており、リンゴ園が連なっている。
リンゴ園の連なる辺りでは大量の毛虫が道を歩いていた。駆除が大変だろうなと思ってしまう。猪も多いのか、猪除けの柵も頑丈で、街道上に猪除けの柵まである。
山口宿の次の宿場は津和野宿であるが、徳佐も宿場機能があったようで、本陣の門が残っていた。
徳佐八幡宮の参道が山陰道から延びている。この参道はしだれ桜が有名で期待していたが、今年はここも桜が早かったようで、すっかり終わっている。
何度か国道9号線と道は交差するが、国道と道が重なったのは野坂堤の300メートルほどだけ。ほぼのんびりした旧道歩きだけで、山口県は終了した。県境は野坂峠。いよいよ2県目となる島根県である。旧国としてはここから3ヶ国目の石見国で、ここが長門国との国境となる。しかし、山口側の看板が普通なのに島根側の看板があまりにボロボロで島根県民としては少々なさけなくなる。
野坂峠の島根県側は10年前の2007年から翌年にかけ発掘調査がなされ、「山陰道(野坂峠越、徳城峠越)発掘調査報告書」を津和野町教育委員会が作成している。この報告書がインターネット上で入手できたので、詳しく見ると、野坂峠越も徳城峠越も手持ちの地図にはないルートとなっている。野坂峠越部分の地形図には破線が記されており、これが山陰道だと思っていたが、違うことが判明した。通常の徒歩旅ではスマホに入れた地図を頼りに歩いているが、今回はそれでは正しいルートをたどれそうにない。仕方ないので事前に地形図をコピーし、正しいと思われるルートを丹念にトレースしておいた。また普段は全く使わない方位磁石も持参している。廃道になっていることが予想される部分も多いため、鎌も持ってこようと考えたが、それは止めておいた。
峠を越えて県道を百メートルほど進むと右に分岐がある。ここから江戸期の山陰道は分岐するのだが、分岐に看板はなく、旧道の入り口がよく分からない。分岐は地形図に破線で示してある道と同じ場所なので分かるのだが、その地点からもう一本延びているはずの旧道が分からないのだ。数年前に歩いた人の記録でも分からなかったとあるのでこれは予想通り。無理はせず、地形図にある道を進む。その道を数百メートル進むと旧道と交差する。左にずっと登って行けば先ほどの分岐に出るはずだが、標高差がかなりある。少し進むと石畳で旧道であることが確認できたので交差地点に戻って右に進む。10年前の発掘終了後は歩きやすく整備していたはずで、8年前に歩いた人の記録だと歩きやすそうに書いてあったが、現在は荒れている。すぐ近くにある地形図にある道が整備されているので普通はそちらを歩くためだろう。それでも最初は道が明瞭で安心して進めた。
途中からは倒れた竹などで道が遮られ、進むのが困難になってきた。今日は既に20キロ以上歩いており、足が思うようには上がらず、障害物をまたぐのも苦労する。道の真ん中には蒟蒻(こんにゃく)の目がどんどん出てきている。サイズ的には畑で作る3-4年物よりずっと大きい。毎年道の真ん中に生えても踏まれたり持って行かれたりしていないということ。せっかく一度発掘し、歩けるようにしたのにもったいない。それにしても、4月中旬が種芋の植え付け時期のはずなのに、自生のものがもうこんなに育っているとは驚きだ。
坂を下りきると津和野の町。長門峡から津和野まで約30キロ、この先は鉄道やバス道から離れた山に入るので、当初計画2日目はここまでだった。しかし、日の長い4月になった上に、今回は出発地点で車中泊していたので早朝に出発できている。もしバス道から離れた場所で日が暮れてしまってもSOSすれば家から遠くはないので迎えに来てももらえる。先の日程を考えても進んだ方が得策なので、朝からそのつもりで進んできた。家から車で1時間くらいの津和野なので、今回は特に何か見る必要もない。という訳で、津和野は少し休んだだけで素通り。相変わらず観光客が多く、水路の鯉もたくさんいた。
津和野から益田に至る道は川沿いに進めば楽なのだが、江戸期の山陰道は天領であった日原地区と畑迫地区を避けるため、5つもの峠越えを強いられた。明治になって国道も鉄道も日原を通る川沿いになり、この旧道はすっかり寂れ、現在は場所を特定できなくなっている場所さえある。街道歩きをした人の記録もネットで色々探したが、無事に歩けている記録は地元の人に案内してもらった一人のみしか見つからず、後は迷って引き返した人や最初から国道へと迂回した人ばかりである。そんな道を疲れた午後に一人で突っ込むのはどうかと思うが、今の時代集落に出られれば携帯電話が通じる。事前に地図を読めば、地形図と磁石さえあれば集落に出られると確信できたので突っ込むことにした。
一つ目のカシノミ峠(地形図にはカタカナで名が出ている)からグーグルマップに道はない。とはいえ、ここは地形図には破線の道が示されており、舗装された車道になっていることが事前に分かっている。地図を見ながら分岐を間違えないよう進むのみだ。しかし、峠までに時間がかかり、道に迷わなくても日が暮れるまでに全峠を終えるのが厳しくなってきた。カシノミ峠からの下り道は、廃道となった旧道が車道の下にあるという。気にしながら歩いていると降り口が分かったので、旧道に入ってみた。今は竹藪となっている中に道の跡と棚田の遺構がなんとなく分かる。なるべく道を進んでいたが、何度も行く手を阻まれ、回り道を強いられるので、途中からは道が見えていればOK、進みやすい場所を進むことにし、何とか前進。川を渡る橋の痕跡も見つかったが、さすがにこれを渡る気はせず、別の場所で渡った。
無事に平岩集落に出る。民家の庭先のような場所に出てしまい、おじさんが休んでいたので、素通りする訳にもいかず、話しかける。おじさんはその場所が旧道につながることは知っていたが、案内もなしに地元民以外が抜けて来たことには驚いていた。
2つ目の峠は、経世羅(きょうせら)峠。この峠からの道が完全廃道になっている。「山陰道(野坂峠越、徳城峠越)発掘調査報告書」の地図でもここだけはルートが破線で道の特定が出来ていない。途中で迷って引き返した人が迷ったのもここ。地元の人の案内で進んだ唯一の記録でも道のない藪を進んでいる。しかし、こういう分からない場所を進むのは久しぶりで、なんだかワクワクしてきた。車道からの分岐にはおどろおどろしい廃屋が建っており、これから進むルートの不気味さを語っている。このルートの前半は地形図に破線があり、地図を見ていれば道に迷うことはない。ただし、進み始めてすぐに苔むした倒木が道をふさいでおり、整備していない年月を感じさせてくれる。
意外にあっさりと経世羅峠に到着、次の登りが問題なので見晴らしの良い場所で、道が分からない場合の進むルートを検討する。経世羅峠を下りきった場所は湿地になっている。地形図の破線は右に湿地を巻いているが、右には進めそうにない。ここを通過した人の作った地図ではここをほぼ北に直進しているが、踏み跡も見えない沼地。仕方なしに左(西側)に進むとすぐに小川を越える場所があり、その先なら地面が乾いている。ここで川を渡り、北に直進する。しかし、倒れた竹藪に行く手を阻まれ、ほとんど進めない。あきらめて小川を越えたところまで戻って、西に進む。再び川を越えた跡がある場所に出て、しかも西に向かう道はけもの道のようになってしまった。ここで再び川を渡り、北に進む。なんとか竹だらけの平地を越えて斜面に取りつく。そのまま強引に登って行くと、墓石が数基倒れている場所に出た。ここを通過した人の記録にあった場所と同じだと思われる。
その高さで右に進むと地形図の破線の道に出るかと思ったが、尾根筋を北北西に進む道が見つかったので、こちらを登って行った。登りきったところに送電線の鉄塔があった。道に迷った人の記録にあった場所に違いない。その人は逆側から来ており、この鉄塔までは林道があったとある。とりあえずこれでこの山道を下ることは出来そう。ここからは旧道がほぼ消えており、下の集落に出ればいいのだ。この辺りが3つ目の峠だが、名前は分からない。
明確な小道をしばらく進むと車も走れる大きな林道に出た。送電線を作る時に作った林道だそう。後はもう林道をひたすら歩くのみである。
宿の谷という集落に出た。最大の難所を終えてホッとしたが、時間は既に17時である。残る峠はあと2つ。暗くなる前に越えるのは難しいが、難関は終えたので可能性はある。
4つ目の峠は鬼ヶ峠。名前は厳しそうだが、カシノミ峠同様にここは舗装された車道だ。しかも、今回の峠の中では、唯一、グーグルマップに出ている道である。傾斜もなだらかで、気軽に歩ける道だ。
最後の徳城峠への分岐に到着したのが18時。西日本とはいえ、あと1時間もしないうちに暗くになってしまう。徳城峠越も地形図にさえない道だが、「山陰道(野坂峠越、徳城峠越)発掘調査報告書」に地図があり、分岐にも詳しい地図があった。分岐の地図を見るまでは進むかどうか迷っていたが、これなら大丈夫という気がしてきた。3年前に日本遺産に指定されたということなので、管理も行き届いているだろう。懐中電灯も持っており、整備された山道なら暗くなっても何とかなると、進むことにした。
放置すればすぐに竹に埋もれそうな道がきれいに整備されており、ほっとした。これなら暗くなっても大丈夫。
案の定、途中で日は暮れ、最後は暗くなってきた。真っ暗になる寸前に何とか峠道を超えて、国道9号線沿いの小瀬に出た。時間は19時前、朝6時前から歩いているので13時間も歩き、疲れたー。
本日の距離 45km
山道の合計距離 78km