Day2 大田原宿--鍋掛宿-越堀宿-芦野宿-白坂宿-白河宿 43.4km
青春18切符の最終日に最後の一枚を使って奥州街道の後半を歩くことにした。距離は前半とほぼ同じだが、遠い分行き帰りに時間がかかる。前回でさえ始発出発、終電1時間前の帰宅である。今日は始発で出て同じペースでも、帰着は終電ギリギリの予定だ。帰りは一部新幹線に乗ることや一晩どこかで過ごすことも計画段階で十分に想定しておいた。
しかし、計画はいきなり狂った。目覚ましが鳴らず、寝坊したのだ。お陰で予定よりも30分以上遅い列車での出発となる。宇都宮線が快速の始発となり、バスの接続も良かったので、最終的には予定より20分遅れただけで前回バスに乗った大田原市足銀南出張所前のバス停に到着。終電に間に合う希望を持って歩き出しす。
1キロほど歩いた交差点で左から来るのが日光北街道である。日光のお参りをして奥州方面に向かうなら本来歩くのはこの日光北街道だったはずだ。ここで右折し、大田原宿に入って行く。かつての本陣があった辺りが小さな公園になっている。この公園のトイレはウォシュレット付きできれい。まだ少ししか歩いていないが、ここで一休み。
さらに歩くと左手に弓矢を持った銅像がある。平安末期、源平の争いであった屋島の戦いで小船の上の扇子を射抜いた那須与一の像である。
街一番の交差点にあるのが、金燈籠(かなどうろう)で、小さな公園になっている。1819年に初代が建てられた金灯籠だが、今あるのは3代目。
城下町らしく、街道は宿内で何度も曲がっている。新しい建物がほとんどだが、中には大きな古い石の倉庫が今も使われていたりし、趣きも残る街である。
城山の坂を越えると宿は終わり、蛇尾(さび)川を渡る。水がすごく澄んでいた。
コンビニの一角に中田原一里塚。
中田原一里塚で休憩するつもりだったが、工事をしていたので直進。休憩する場所のない田舎道が続く。小滝の道標が次のポイントだったが、そこもゆっくり座れそうな場所ではなかった。結局、疲れて民家の石垣に座り込んでしまう。東海道の前半はペースが掴めておらずこういう休憩も多かったが、最近はペースが掴め事前に休む場所まで考えて歩いている。しかし、今日は出だしでミスったためか、何かとうまくいかない。
練貫の外れに、常夜橙や道標があった。18世紀のものらしい。この街道沿いにはこのタイプの常夜灯が多い。
愛宕峠に鍋掛一里塚があった。峠はかなり掘り下げられているので、一里塚は急階段の上。仕方ないなと登ったが、そこにある一里塚は道路拡張工事で移転したものだった。それなら道路から見える位置でも良かったのに・・・。
一里塚から坂を下った鍋掛十文字の交差点に栃木県最後のコンビニ(ヤマザキショップなら少し先にある)がある。お昼も過ぎており、ここで弁当を買って昼食。ここまで、所要時間も昼食休みの時間も事前想定とぴったり同じ。終電の40分前に駅に着く事前想定であるが、出発が20分遅れているので余裕は20分。間に合いそうだと少し安心するも、このまま時間との戦いが続くと思うとうんざりもする。普段は時計などほとんど見ないで歩いているのだ。今回は元々時間が厳しかったので、いつものペースで間に合うのかどうかを過去の記録(メモしていないので写真の時間)から途中ポイントの想定時間を出してみたまで。
交差点から先が鍋掛宿だが、宿場町らしい雰囲気はあまり残っていない。写真は芭蕉句碑。芭蕉が訪れたのは1689年、句碑は1808年に建てられた。
那珂川を渡ると越堀宿だ。澄んだ水が穏やかに流れる川だが、増水で足止めを食うこともあったために、川の両岸がそれぞれ宿場になっている。
写真は、昭和13年建立の「征馬之碑」と昭和61年建立の「殉従軍馬之碑」。戦死した馬のために建てたのだそう。那須高原といえば乗馬のイメージがあるが、昔から馬が多い地方だったのか、道中に馬頭観世音もいくつかあった。
間宿の寺子にある一里塚は公園になっており、一休み。少し行くと余笹(よささ)川を見下ろす場所にも休める公園。各宿にこういう休憩所があればどんなに良いか。余笹川の河原にはテントが張れそうな場所もあった。
さらにアップダウンがあり、また川を渡る。黒川を渡り坂を上がり切ると夫婦石がある。鳥居があって神社にもなっているようだ。石は道路沿いにあったが、事前にいくつか見た日記では田んぼの中にあったはず。最近道路拡張したのか。
国道294号と交差して坂を下りきったところが、芦野宿。屋号を書いた常夜灯がある家が多く、宿場町らしさを感じさせてくれる。古い建物も多く、好きな感じの宿場である。この辺りが今日の中間点だ。大田原に泊まって朝早くから歩いていれば、写真のうなぎ屋で昼食をとりたかった。丁子屋という元旅籠で創業300年! 江戸時代から続く老舗だ。
隣にある近代的なデザインの美術館が石の美術館ストーンプラザ。デザインは近代的だが古い石の蔵を活かしているのが良い。
石の美術館や武家屋敷門など見どころが多い芦野宿で唯一時間をかけて見たのが、遊行栁。一遍上人(=遊行上人)の柳の杖が根付いて柳になったとかの伝説の場所で、西行、芭蕉、蕪村などがこの遊行柳を訪れ、句を読んでいる。もっとも、時間をかけて見たというよりも疲れて長く休んでいたのが本当のところ。
芦野宿をでると奥州街道は国道294号と重なってしまうが、集落の度に旧道が集落内に分かれている。最初の横岡には漆喰壁の蔵がたくさん残っていた。
旧道の最後にべこ石の碑がある。約3500の文字を刻した碑で、1848年に建立だ。孝行の大切さなど儒教的な人の道をここで教えている。この地方でも牛を「べこ」と称し石の形がか臥牛に似ているため、べこ石と呼ばれているようだ。
間の宿寄居では写真のような立派な屋敷が目についた。
栃木県最後の一里塚が、泉田の一里塚。ベンチがあったので、ここでも休む。道路の看板には終着である白河までの距離がすでに出ており、気持ち的に少し余裕が出てきた。しかし疲れた体に登り坂はきつい。
少し行くと初花清水と呼ばれる清水があり、福島県から車で汲みに来た人がいた。たしかにこの水はうまい。飲めるだけのみ、ボトルにも清水を満たす。
清水への道標でもある瓢石(ふくべいし)。
栃木県最後の山中集落の民家に、明治天皇山中御小休所の看板。この土蔵の前にあったが、ご休憩された場所は平屋建てで茅葺きだったという。
ついに県境到着。栃木=下野国側にある境の明神は、1053年創立という由緒正しき神社だ。
福島側にも境神社がある。こちらの方は薄暗く霊が感じられる気がする。なんとか明るい時間に峠を越えられてホッとした。
峠を下ると白坂宿。しかし、ここは新しい建物があるだけで、宿場の雰囲気はなく、気が付いたら終わっており、一枚の写真もとらず。
白河宿に着いたのは真っ暗になってから。笛や囃子の音がするので覗いてみると祭りの練習をしているようだ。音が消えるくらい離れるとまた次の音。各町内で競うように練習している。古い建物が多く、明るい時間に着きたかったとも思うが、この祭りの練習は見られなかったはず。この時間の到着で良かったかな。
江戸幕府が整備した五街道の奥州街道は、江戸からこの白河宿まで。宇都宮までは日光街道と重なるので、奥州街道として歩いたのは90キロ弱である。最後の写真は本陣のあった場所。ここで奥州街道の徒歩旅は終了。
白河宿を出て少し行った場所に、会津街道と仙台・松前へと続く広義の奥州街道の分岐である女石の追分がある。事前に調べていた範囲では、そこが道中奉行管轄奥州街道の終点らしく、そこまで歩いている人が多かった。しかし、何もない分岐で終了なんて無意味なので、当初は白河城をゴールにしようとも考えた。ただ、到着が夜となりそうで暗い中で観光もできないだろうと考え、ゴールを本陣前にしたのでした。
想定時間に狂いもなく、駅には終電の20分前に到着。通学の高校生の賑わう駅ホームで、一人祝杯。
歩き始めた当初は五街道なんて考えていなかったが、三街道歩いたので、残りも歩きたくなっている。つぎは最難関の中山道か、気軽に甲州街道か、悩むところだ。
本日の距離 43.4km
奥州街道の合計距離 43.2km + 43.4km = 86.6km
本日の出費 交通2570円 + 飲食1545円 = 4115円
*交通は18切符の一日分と大田原市内バス。