Day12 中津川宿-大井宿-大湫宿-細久手宿 28km
昨日より1時間半遅い6時の出発となってしまった。昨日は中津川宿の約半分を歩き、都会にしては古い家並みが残っている程度に思っていたが、残り半分には意外に多くの伝統家屋が残っている。写真は中津川村庄屋居宅で、古い部分は江戸中期にまでさかのぼるという。江戸後期からは旅籠を営まれ、明治30年代からは医院として使われていたもの。
京方の桝形から先の横町と呼ばれる一帯は特に伝統家屋が並んでいた。
美濃路に入っても道標はしっかりしており、歩きやすい道で景色の良い場所も多いが、いかんせん素晴らしかった木曽路の後とあって、印象に残るものが少ない。中津川宿に続く大井宿は現在の恵那市の中心部で、ここも中津川と並ぶ大きな街である。今朝の中津川宿ほどではないが、ここにも伝統家屋がちらほら残る。写真は"宿役人の家"で、江戸末期には大きな旅籠でもあったという。
大井宿の端にあるのが、大井橋。欄干には広重が中山道を描いた木曽街道六十九次の陶板がはめこまれており、見ているとあっという間に時間が過ぎる。東海道の絵柄は幼い頃に永谷園お茶漬け海苔の付録で親しんでいたため、各宿場でどこの絵かななどと思いながら歩いていたが、中山道の絵はその宿場に書いているのを初めて見ることが多い。それよりも中山道でなく木曽街道六十九次という名であることにここで気づき驚いた。中山道のことを木曽街道とも呼ぶことがあったの?
大井宿を出てしばらく進むと、是より西十三峠道標がある。実際には20くらいの峠が続く難所だ。今回は初めて5日以上連続で歩くことにし、しかも梅雨時とあって、どこまで歩くとの目処は立てていなかった。そのため下調べは最初の方だけで、中津川から先は山が終わって楽だろうなどと予想していた。そのためこの看板を見た時も気軽なままで、大した峠なんてないだろうと考えた。しかし、実際には坂道の連続で非常にきつく、甘く考えていたこともあって、結局最低ラインのつもりだった一日30キロをこの日は歩くことができなかった。坂だけならまだしも雨の日に石畳が続くと本当に歩き難くく、困った。
苦労して進む中、楽しかったのは道中いくらでもキノコが生えていたこと。食べられると知っているものもあり、結構取りたくなったりしつつ歩いた。中でも持って帰ろうかと迷ったのは、この巨大なアミタケ(傘の裏がスポンジ状のキノコ)。初めてキノコを採りに行ったときに一番たくさん取れたのがアミタケ系のイグチで、その時に日本にあるアミタケ系で食べられないのはごく少数と教えてもらった。アミタケだけなら解るようになるかもと、後日色々図鑑などを真剣に見て、特に毒のあるのは頭に入れたつもりであった。その時に食べてみたいなぁと思っていたのが写真のキノコ。この時は名を忘れていたがアカヤマドリタケ(と思われる)。かなり自信はあったが、やっぱり知っている人と一緒の時か、かなり食べるまでに調べる時間がある時でないと食べるのは怖い。裂いて中の写真も撮ったりしたが、最終的にはこれも置いてきた。
峠の連続で疲れていると、いつも以上に名所の看板を読んでしまう。写真の首なし地蔵は、『昔、二人の武士が旅をしていて、地蔵前で昼寝をした。そして、一人が眼を覚ますと、仲間の首がない。その武士が、「仲間が襲われたのに黙って見ているとは何事ぞ」と地蔵の首を刀で斬り落としてしまった。』といわれているそう。
大湫(おおくて)宿到着は17時。国道や鉄道から離れた山中の宿場なら相当趣きがあるだろうと期待していたが、それほど多くは残っていない。昔は旅籠だったおもだか屋という建物が無料休憩所になっていたが、予定より時間が遅いので先に進む。
休憩所の魅力を断ち切って進んだが、すぐ先にあった大木に目を奪われて、動けなくなった。巨木好きとしてはしばし眺めずにはいられない大杉である。大杉(県指定天然記念物)は推定樹齢1300年!
大湫宿を過ぎてしばらく行くとまた峠の山道、しかも石畳だ。
細久手宿到着は19時すぎ。もう薄暗く、これ以上進む気にはなれなかった。ここも不便な山あいの宿だが伝統家屋は数少ない。そんな中、目立っていたのが国登録有形文化財である旅館大黒屋(左の建物)、尾州家定本陣であった建物で、今も旅館として営業を続けている。
本日の距離 28km
中山道の合計距離 366 + 28 = 394km