徒歩旅

Day3 飯塚-内野-山家-原田-田代-鳥栖-田代 41㎞

**地図**
 長崎街道の3日目。5時20分に起床する。6時には出るつもりだったが、ドリンクバーでスープやみそ汁などを時間をかけて飲んでしまい、少し遅くなってしまった。スタートは6時15分、ちょうど明るくなってくる頃だ。今まで街道から逸れて宿泊等した場合には、同じ地点まで戻ることにしていたが、同じ道を歩くのは面白くないので、別ルートで行くことにした。できうる限り旧街道を歩こうというのは止めて、なるべく街道筋というゆるめのルールに変えることにしたのだ。ショートカットで街道に合流するまで国道を南に歩くことも考えたが、なるべくは街道筋をということで、穂波川を渡る橋を一本南にしただけ。昨夜離れた場所からそう遠くない地点にて、長崎街道に戻った。
 住宅街で昔の様子が感じられるような建物はないが、道幅は狭く、緩やかにカーブしていく道は、昔の街道ぽい。天道駅を過ぎてすぐに、古い建物が何軒か残っていた。写真の酒屋は明治元年創業、当時のものかどうかわからないが、母屋や土蔵は趣ある伝統家屋だ。
22/03/05 06:52:08
 17世紀までの街道は天道で泉河内川を渡っていたが、1701年にルートが変わり、街道はそのまま南下する道になった。数百メートル南に道なりに進むと泉河内川を渡る。本来の長崎街道はここの橋で渡らずに、さらに500メートルほど南下した辺りで、川を渡る。現在その場所で渡ることができないので、手前の橋か次の橋を渡って進むことになる。旧街道にこだわるなら次の橋を渡り、対岸で北に戻って旧街道に出ることになるが、迂回の距離は長い。今日からこだわることを止めたので、手前の橋を渡り、さっさと対岸の旧街道に合流した。長崎街道にあまり重なることなく国道200号ができたので、街道筋の大半は車が少なく、のんびりと歩くことができる。
 9時半頃に内野宿に到着する。江戸時代そのままに道が残り、宿場の面影をとどめていることで知られる宿場町だ。わかりやすい案内板が何か所もあり、街道歩きに親切な場所で、人気がある。
22/03/05 09:46:12
 残念ながら内野宿展示館となっている元旅籠の肥前屋などは、コロナのまん延防止の為に閉まっていたが、外観だけでも十分に趣がある。錆びたトタンの壁面が寂しいが、案内板に江戸時代と建物とあったのは唯一この松屋だけ。元酒屋だそう。
22/03/05 09:50:24
 その先にある小倉屋は、元禄時代からの地主で、伊能忠敬などが宿泊したという。現在の建物は明治13年に建てられたものだ。
22/03/05 09:52:36
 内野宿の一番奥に内野老松神社がある。ここの境内でまた座り込み、両足にできたマメに針を刺し、水抜きをする。そのまま休んでいると10人くらいの団体がやってきた。内野宿を散策しているようで、地元のガイドさんから境内で内野宿の説明を受けている。最後尾で付いて来た地元のサポート役のような人は、説明を聞く必要がないからか私に話しかけてくる。内野宿のことを教えてくれるのは嬉しいが、このご時世でこの人だけマスクしていないのに話しかけて来たのにはまいった。
22/03/05 09:59:06
 内野宿を出てしばらく進むと長崎街道最大の難所といわれる冷水(ひやみず)峠への上り坂が始まる。国道から離れるとすぐに昔ながらの石畳の峠道となる。石畳の道は普段でも歩き難いが、足の裏にマメがある今は特に辛く、なるべく端の石畳でない場所をゆっくりと登ってゆく。
22/03/05 10:53:58
 電柱が何本か立っているが、その電柱は周辺の竹や木と同じ緑色をしている。景観に配慮したかのかと感心していたが、よく見ると着色したのではなく、緑色の苔が生えているだけだった。写真のちょうど真ん中に電柱が写っている。
22/03/05 10:59:24
 地蔵堂があり、一休み。お堂は二つあり、一つはこの地に伝わる伝承に基づく首なし地蔵が祭られていた。
22/03/05 11:05:40
 一里塚を過ぎると峠までもう少しだ。
22/03/05 11:09:14
 思ったよりは歩きやすい道で、無事に冷水峠に到着する。峠から尾根沿いに道が延びており、大根地神社へと続いている。先ほど話しかけて来たおじさんが絶賛していた神社だが、地図を見る限り少し遠いので行くのはやめた。
22/03/05 11:22:44
 峠から先は車の走れる林道になっている。国道と大根地神社を結ぶ道だからか、意外に何台も車が走っていた。すぐに国道に合流する。下りの旧街道はほぼ国道上だが、途中何か所も国道の脇にある旧道として姿を現す。しかし、分岐には何も書いていおらず、出口にはなぜか看板があるところばかり。ならばと立ち入り禁止とあるところを進んでみたら本当に途中で進めなかったことが二度続き、旧道にこだわるのは止めた。冷水峠を越えたところから筑紫野市で、案内板は筑紫野市が建てている。北九州市からずっとわかりやすい看板ばかりで長崎街道は歩きやすいと思っていたが、ここ筑紫野は全然ダメ・・・。看板が市の中心から歩くことしか考えておらず、逆側から来る人のことを無視しているのだ。これは峠道から下りきって平野部に入っても同じで、呆れてしまった。
22/03/05 12:21:56
 14時20分頃に山家(やまえ)宿の東端である大庄屋役跡に到着。
22/03/05 14:24:22
 10分ほどで山家宿を抜ける。宿の西端は、山家宿西構口(かまえぐち)並びに土塀である。構口とは宿場の出入り口に設けられた門塀のことで、現存するのはここと昨日通った木屋瀬宿だけだそう。
22/03/05 14:32:30
 山家宿を出てしばらく行くと国道200号に出る。ここが長崎街道と薩摩街道の追分である。ところがここには薩摩街道としか書いておらず、あれ? 少し進むとグーグルマップと違う場所に追分の看板があり、歩いてきた道と違う裏道が長崎街道とある。逆側の分岐でどちらに行くか少し迷ったが、そこには何の看板もなかったのに・・・。筑紫野市の看板は西に向かう人のことを本当に考えていないのだ。
 9世紀の国史にも出てくるという由緒正しき筑紫神社の辺りからが原田宿となる。現在は案内板があるくらいで、新しい街並みが続いている。
22/03/05 16:11:28
 福岡県と佐賀県の県境が、昔の筑前と肥前の国境で、三国境石と呼ばれる石碑がある。100メートルほど南東が実際に筑前、筑後、肥前の3国が接していた場所のはず。石碑を動かしたのか、昔は境界が明確でなく街道沿いのこの場所を3国の境としたのかは解説がなく、分からず。
22/03/05 17:10:46
 飛鳥時代の城塞跡である関屋土塁跡を越えると線路を渡ると基山(きやま)町の中心部だ。木山口(きやまぐち)として知られる江戸時代からの町で、いまも古い家屋が点在している。
22/03/05 17:58:06
 なんとか日のあるうちに田代宿に着きたかったが、もう少しというところで暗くなってしまった。諦めて懐中電灯などを出すついでに、道端でまた足のマメの水抜きをし、大休止する。おかげで田代宿に着いた時にはもう真っ暗になってしまっていた。
22/03/05 19:03:52
 田代宿の八坂神社にて再び休憩。本日はこの近くのインターネットカフェに泊まる予定である。郊外で近くの食事処は一軒のみ。21時までというのは事前に調べてあったのだが、メニューでも見ようとウェブサイトを見るとコロナで20時閉店とある。ラストオーダーが19時半。あと15分しかない。10分で行ける場所だが、もし間に合わなかったら悲しい。インターネットカフェでも食事はできるが、それも嫌なので少し先の鳥栖駅前まで歩くことに決めた。
 途中に英彦山に向かう街道との追分があった。ここから英彦山に向かうなら薩摩街道と交差するはず。次の冬は薩摩街道を歩こうかと思っていたので、薩摩からここまでをつなぐのも良いかななどと考える。
22/03/05 19:33:26
 20時頃に駅前のショッピングセンターに入り夕食をとる。食事の後、ゆっくりしていたら閉店だと言われてしまった。コロナでこのショッピングセンターも閉館が早く、21時までだという。のんびりしたかったのに~。まあ無事に食事出来ただけでも良かったかな。しかし、もっと休むつもりだったのに叶わず、インターネットカフェまでの約一キロが辛かった。
本日の距離 41km
長崎街道の合計距離 107km