Day2 黒崎-木屋瀬-飯塚 37㎞
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地図**
長崎街道の2日目。ホテルで朝食をとったので出発は7時を過ぎてしまった。長崎街道の乱橋まで戻り、橋を渡って左折し、そこから南に向かって進む。
街道の道筋が分かる看板が多く設置されており、本当にありがたい。これまでに歩いてきた街道とは大違いである。
黒崎宿を出ると曲里の松並木(まがりのまつなみき)が始まる。「江戸期からの松の木は、害虫被害で枯れたり台風で倒れたりしてほぼ消滅したとみられるが、今なお2本が残る」とあったが、古木らしき松にも案内板はなく、どの2本かは分からず。アクリル板で保護された切り株に江戸時代からの年輪が示されており、往時からここが松並木だったのは良く分かった。現在並ぶ松の木の大半は、市が1978年ごろ以降に植栽したという。樹齢40年を超え、まずまず立派な松並木となっている。
現在の地表は削れてしまったのか左右ともに並木道よりは低くなっており、交差する道があると並木道が削られ低くなっている。
松並木が終わり、そのまま旧街道らしき道を進むと旧道は国道200号に吸収されてしまう。国道200号は右に90度曲がるところで長崎街道は直進のままで、旧道らしき道になる。この後、何度か国道211号と合流したり、昔ながらの裏道になったりしながら南に進む。山陽新幹線を越え、右折し、しばらく進むと右側に立派な伝統家屋がある。黒崎宿と木屋瀬(こやのせ)宿との間の立場茶屋として、諸大名はじめ、長崎奉行、巡見使、奉幣使らが休憩した立場茶屋銀杏屋である。「記録によると主屋の建築時期は、天保7年(1836)10月の火災による焼失直後から翌8年にかけてである。」ということで、まぎれもない江戸時代の建物だ。入館無料で見学できるので絶好の休憩地として狙っていたが、開館が10時からで1時間近く待たねばならないのであきらめた。
立場茶屋の先は急な下り坂になっている。石坂の急坂(いしさかのきゅうはん)と呼ばれる難所の一つだ。
下り坂だし、まだ午前で体力的には元気だったが、昨日できた両足のマメが酷く、実は痛みを耐えながら歩いている。痛みが原因で歩き方が変になっているところに急な下り坂で、今度は爪を痛めてしまい、坂の途中で座り込んでしまった。応急処置を施し、激痛が収まるのをそのまま待つ。
しばらくして何とか再び進むことができたが、これはまずいと弱気になっている。
木屋瀬宿に入ると伝統家屋がずらりと残っており、これはすごい! 壮観である。
無料開放して見学や休憩ができる伝統家屋もあり心がひかれたが、今休むともう歩けなくなってしまいそう。人に心配をかけるのも嫌なのでそのまま素通りする。
木屋瀬宿を抜けしばらく進むと街道筋から1ブロック入ったところに全国チェーンの回転寿司屋があり、そこで昼食し、ゆっくりと休む。
筑豊電鉄の感田(がんだ)駅の脇に下調べしてある地図とは違う方向に長崎街道の看板があり、そちらの小道に入る。その先には感田の堰跡という石積みの遺跡があった。江戸時代の堤防である。遠賀川がたびたび氾濫し、この辺りは洪水との戦いだったそう。街道もそのために何度か動いているのだろう。遺跡の上には阿高神社がある。その境内には推定樹齢500年というクスノキがある。かなり期待して見に行ったが、思ったほどの大木ではなかった。
感田の堰跡からの長崎街道と思しき道を進むが、橋のない川に阻まれ、結局調べていた道に戻り、先に進む。
遠賀川を渡り、直方の市街地に入る。元々の長崎街道はここで遠賀川を渡ることなく、川の東岸を南下していた。1720年に直方藩の藩主が死去した折、直方藩は福岡藩に併合される。廃藩となった直方城の城下町が寂れることを危惧した町年寄がこの時に長崎街道を直方の市街地を通るように変更させたのだそう。元々は街道沿いの街ではなかったために宿場町ではなかったものの、街道の街として直方は栄え続けたのだという。
街道はここでもアーケード街に入るのだが、昼間なのに人通りはなく、ほとんどの店が閉まっている。さすがにこの寂れ方は悲しくなる。大都会の黒崎でさえ寂れていたのだから、炭鉱でかつて栄えた直方の商店街では仕方ないのだろうか。
商店街出口に大正時代に建築された元西日本銀行直方支店がある。その前にベンチがあり、一休み。休むたびに靴を脱ぎ、針を使ってマメの水を抜いている。歩くペースは予定よりもずっと遅くなっており、ここで今回長崎まで歩くことを断念した。明後日のホテルを予約しているので、そこまでは行きたいが・・・。
ここからは開き直り、ゆっくり歩いて、休憩も取りまくる。道も平坦で歩きやすく、足の痛みもましになった気がする。
直方市と飯塚市に挟まれた小竹町は、長崎街道の間の宿として賑わった場所で、街道沿いに色々見どころが残っている。幕末の頃からは石炭の採掘も盛んになり、明治以降炭鉱がますます盛んになり、大いに賑わった。飯塚市の作成した炭都鉄道路線図という昭和15年ころと平成27年の鉄道図や炭鉱の図が小竹の案内所にも掲げられており、これを見ると小竹が筑豊炭田の中心に位置していることが良く分かった。
飯塚市に入り少し進むと左手にレンガ造りの壁が見える。中をのぞくとお地蔵さまがずらり。高聖奥之院地蔵堂である。福岡県に入ってからはレンガ造りをよく見るが、他の地域ではそんなに多くない。レンガに囲まれた石仏が並んでいるのはインドのイメージであり、一瞬ここはどこだろうと思ってしまった。
飯塚市の市街地に差し掛かる辺りに炭鉱王として知られた旧伊藤伝右衛門邸が残されている。明治期の建物で一般公開されているが、時間が遅く閉まっていた。
飯塚宿の中心部も寂れたアーケード街である。ここまで寂れたアーケード街が次々出てくると時代をつくづく感じてしまう。
ホテルに泊まるなら飯塚宿の中心部にいくつかあったが、明日の行程が長くなるのでできるだけ先に進みかつ、朝早く出られるように、今日の泊りの予定はインターネットカフェにしている。残り数キロだが、暗くなったことだし、足も痛いので、穂波川のほとりで大休止。さらには夕食も取って再びのんびりしたので、インターネットカフェに入ったのは21時を回っていた。
本日の距離 37km
長崎街道の合計距離 66km