徒歩旅

Day4 平塚宿-大磯宿-小田原宿 27.2km

 4日目は、平塚がスタートとなる。始発電車に乗ろうと暗いうちから起きたが、色々していると時間がたち予定より1時間以上遅くの出発となってしまった。それでも7時に歩き始め、まずは前回途中で止めた平塚宿を見て歩く。少し旧東海道からそれるが、平塚という地名の語源となる塚を見に行く。9世紀半ば、桓武天皇の三代孫高見王の娘政子が旅の途中この地で逝去したために墓として塚が築かれた。塚の上が平らになったので里人はこの塚を「ひらつか」と呼んできたそうな。
平塚の塚
 平塚宿の出口にあたる京口見附からまた国道1号と合流した。平塚宿から大磯宿までは3キロしかなく、宿場の設置はどういう基準で決めたのだろうかなどと考えつつ歩く。途中、立派な茅葺の民家が残っており、1号線沿いでしかも民家なのに良く残ってるなと見入ってしまう。
茅葺の民家
 旧道が国道から離れると再び静かな道となる。緩やかな坂道になっており、化粧坂(けわいざか)と呼ばれる場所だ。大磯宿の手前だが、鎌倉時代は大磯の中心がこの辺りであったとか。鎌倉時代、大磯には「虎御前」と呼ばれる女性がおり、彼女が朝な夕なと化粧に井戸水を使ったと伝えられているのが、この化粧井戸である。
化粧井戸
 大磯宿の中心部に、大磯は海水浴場発祥地であるとの碑を見つけた。明治18年に日本初の海水浴場が開かれた場所であるらしい。せっかくなので、街道から外れ海岸に出る。海岸には大きなカメラを構えた人々が大勢集まっていた。すぐ目の前の岩礁がアオバト集団飛来地となっており、アオバト撮影を試みているのだ。島にたくさん鳥がいるのが見えたが、視力のあまり良くない私にはどんな鳥かもよく分からない。邪魔をしても何なので離れた場所で一人休んでいるとアオバトの大群が私の方に一斉に飛んできてびっくり。
大磯照ヶ崎
 この海岸には釣り人も多く、テントを張って夜を過ごした様子の人もおり、たまにはキャンプしに来よう思った。明石に住んでいた頃は時々海でテントを張っていたのに、神奈川に来てから一度もしておらず、良い場所を探していたのだ。
 大磯は、湘南発祥の地でもあるという。私は、相模の南部地域で「相南」と称するところだが、海岸部である事だし「湘南」とサンズイを付けて呼ぶようになったのだと勝手に思っていたが、違ったようだ。1660年頃に庵を大磯に建てた人が、大磯の美しい景色を中国の湖南省の湘南地域の景色になぞらえ、石碑に「著盡湘南清絶地」と掘ったのが湘南と呼ばれるようになった起源だそう。この庵は鴫立庵(しぎたつあん)と呼ばれ、大磯の旧東海道=国道1号沿いに現存している。
鴫立庵(しぎたつあん)
 東海道沿いには江戸時代からの松並木が残っているところが多いが、街道を整備した初期の松はさすがに残っていないよう。大磯宿を出たところにある太さ4.3メートルの松が一番太いもので、推定樹齢は300年である。下の写真の左側、手前から2本目がその一番太い松。しかし、太さ4.3メートルと書いてあったが、どう見ても周囲長、太さって直径でいうものではないのだろうか。
大磯クロマツ
 大磯宿から小田原宿へは16キロ、ここまでで最長距離となる。ほとんどが国道1号であるが、時々旧道も残っている。旧道となる部分は川がある場合がほとんどで、大きな橋が新しくできたことで道が変わったことがよく分かる。国府津の辺りで昼食、すでに小田原市内に入っており、本日予定の小田原宿までは余裕で着けそう。途中にめぼしいものは残っていないが、無数の道祖神があり、ゆっくり見て歩くと色々な種類があって楽しい。
道祖神
 小田原は大きな城下町で、当然宿場町としては非常に大きく、見るものが数多く残っている。そんな中ありがたかったのが、無料のお休み処である小田原宿なりわい交流館、昭和7年建築の旧網問屋を整備して開放しているもので、ゆっくり休める座敷があり、パンフレット類もそろっていた。旧東海道沿いに城下町を横断し、早川口まで行って本日の東海道歩きは終了。後は少し戻って小田原城などを見学した。
小田原城天守閣
 余力があり過ぎたので駅前の商店街をぶらぶら歩く。最後に金券ショップを見つけ、帰りの交通費を少しだけ節約した。
本日の距離 27.2km
合計の距離 75km + 27.2km = 102.2km
本日の出費 交通費780円+食費330円=1110円