Day17 三雲-石部宿-草津宿-大津宿 32.7km
本日も暗い時間に出発をする。寝ている友人を残し、そっと出発。最寄りの京阪三井寺駅は無人駅で駅の周りには店もなし。歩き始める三雲駅周辺で朝食をとるのは難しいので、JRに乗り換える膳所駅でコンビニに立ち寄り、おにぎりの朝食。
JRに乗っている間に明るくなり、三雲駅を出発したのは7時半前となっていた。冬至も近く、日の出が遅いので暗いうちから行動してもこの時間である。
三雲辺りにも古い家並みが残り、明治天皇が立ち寄った記念碑もあった。
近江には天井川で知られる川が多い。天井川とは、堤防内等の砂礫堆積の進行により、河床面が周辺平野より高くなった河川を指す。堤防等により河道の固定化をはかると、堤防内での堆積が進行し氾濫の危険が増す。そこで堤防のかさあげが行われ、河床はさらに高くなる。この繰り返しで、河床がどんどん高くなって天井川が形成される。この辺りの川は周辺平野より高いどころではなく、民家の屋根よりも高くなっているところがいくつかあり、道が川の下掘られたトンネルとなっているものまであるのだ。その一つめがこの大沙川隧道である。トンネルの上は道や鉄道ではなく川!
トンネルをくぐった向こう側から上に登れるようになっている。不思議なのはその上に弘法杉と呼ばれる樹齢750年の巨木がある事だ。堤防がどんどんかさ上げされてこの高さになったはずで、その時植えたということはこの堤防はそんなに古い? ちなみに川は細い溝のようで枯れていた。
大沙川の次にある由良谷川も天井川でその下のトンネルをくぐる。甲西駅近くも古い家並みが続いている。写真は北島酒造。
北島酒造の先にあった家棟川も天井川だが、こちらは橋が架かっている。河床が高いので当然橋の前後は坂道だ。故郷である兵庫の神戸市にも天井川がたくさんあるが、トンネルは見たことがなくすべてが橋、自転車で東西に走ると無駄なアップダウンばかりとなる。私のとっての天井川はこのイメージである。
さらに歩いて石部宿にやってきた。京までに残る宿場は、草津と大津のみ。あと3区間で終わってしまう。この宿にも古い建物が多いが、特に目に留まるものはなし。終わりが近づいたことで、気持ちが先に進んでしまっていたのだろうか。
石部金山と呼ばれ、奈良時代には銅、江戸時代に黄銅鉱が採掘されていた鉱山跡が、石部宿の先にある。採鉱はしていないものの、今も相変わらず山を崩し、砕石所となっている。当然大きなトラックがバンバン走るので、ここは歩き難い区間ともなってしまっている。
巨大で無粋な採石場を抜けしばらく歩くと伊勢落地区に到達する。きれいな水が集落内を流れ、水郷を思わせる美しい村だ。
伊勢落に続く梅ノ木立場には、国の重要文化財の指定を受け「旧和中散本舗」として知られる大角家住宅がある。街道名物としてその名が知られた「和中散」は、腹痛や暑気あたりに良く効くとの評判であったそう。
その向かいに建つのが大角家住宅隠居所でこれも重要文化財となっている。江戸中期、母屋に続いて建てられたものである。大角家住宅は参勤交代の大名たちの休憩所として利用されるために家族の生活のために増築されたという。
続く小野村もまるで宿場であったかのように古い建物が並んでいる。この辺りのように次々と古い街並みがあると歩いていて楽しくなってくる。
続く手原村も古い街並みが続くが、受けたのは地名に合わせて作ったベンチ。
草津宿手前にある目川立場の名物の一つが目川ヒョウタン。江戸期には旅人の茶器や酒器として人気があったそうである。
もう一つの目川立場名物が田楽である。広重の東海道53次の石部宿で描かれているのが、旅人で賑わう目川田楽菜飯茶屋なのだ。しかし、目川立場は石部宿よりも草津宿にずっと近い。石部宿近辺には絵になる風景がなかったのだろうか。
天井川で名高い草津川を越えるといよいよ草津宿である。東海道と中仙道の分岐となるのがこの草津宿。京まではあと2区間である。
草津宿は、古い建物が多く残ってる中で商店街がにぎやかで、何よりも本陣がしっかり残っている。都会から便利な場所でもあり、宿場町観光には良い場所といえる。写真は本陣。
昨日のこともあり、今日は朝から休憩の度に靴を脱いで足先のマッサージをしている。草津の無料休憩所である草津市まちなか交流施設くさつ夢本陣でも隅っこで靴を脱いでいたら、管理人に嫌味を言われムカつく。彼はその前にも休んでいる子供に感じの悪いことを言っていた。税金で運営している施設なのに仲間内の井戸端会議所にしている年寄・・・こうは成りたくないものだ。
草津宿に続く矢倉村は矢倉の立場として茶屋などで賑わっていたそう。広重の53次の草津宿はここの茶店と街道を行く駕籠かきなどの様子である。
さらに行くと平清宗の胴塚がある。歴史に詳しくないので清宗の名は記憶にないが、驚いたのがこの胴塚が民家の中庭奥にあり、その民家の持ち主が中まで入って見学できるようにしてくれていること。看板も整備され、その歴史価値は読めば分かるようになっている。
JR南草津駅に近い辺りは、野路と呼ばれ、平安時代から宿駅として知られていた。しかし、江戸期には草津が宿場となり、ここは寂れていくことになる。写真は、日本六玉川の一つであった野路の玉川。
弁天島の浮かぶ弁天池を過ぎ、月の輪立場跡である月の輪池のほとりも過ぎると旧街道は住宅地の中に入っていく。そして15時前に瀬田の唐橋到着。瀬田川は淀川の上流であり、琵琶湖から流れている。東国から京に上るには渡るしかなく、古くから有名な橋で、日本三古橋の一つとされる名勝だ。
橋を渡ってすぐに京阪の踏切を越える。ここから先は本日の宿となる浜大津までほぼ京阪線と平行に進むことになる。足がおかしくなったらいつでもやめて明日に回しても良いと思え、ほっとした。
昨夜飲んだ石山駅前の居酒屋を見つつJR東海道線の高架をくぐり、琵琶湖に近づく。しかし、街道は湖岸には出ずしかも曲がりくねっている。近くには膳所城があるためだろう。住宅街だが古い建物が時折あり、歩いていて楽しいが、やはりこの辺りから足先の痛みが出てきており、ペースは落ちる。写真は岩座(いわい)神社の紅葉。社殿は鎌倉時代のものが残っている。
写真の義仲寺は、木曽義仲を葬ったという小さな塚があり、松尾芭蕉の墓もある。
いよいよ最後の宿場大津宿の中心部に入る。京まではもうひと区間で宿場はない。
本日の宿の近くにあったのがロシア皇太子遭難地碑。大津事件で知られる暗殺事件が起こった場所だ。明治24年に日本を訪問中のロシア帝国皇太子が、警備にあたっていた警察官に斬りつけられ負傷したのがまさにこの場所。何とか明るい時間にここまで到着した。
この後、東海道から数ブロック離れ、琵琶湖の見えるホテルにチェックイン。風呂に入ってのんびりしているところに、東海道歩きの最終日に合わせやってきた妻と合流。夕食は一緒に近くの居酒屋へ。
本日の距離 32.7km
徒歩旅の合計距離 607.5km + 32.7km = 640.2km
東海道の合計距離 522.8km + 32.7km = 555.5km
本日の出費 交通640円 + 飲食3746円 + 宿泊3300円 = 7686円
*徒歩旅の合計距離はお伊勢参りを含めた積算距離
*食費の大半は夜の居酒屋。宿泊費は妻と泊ったので部屋代の半分。
*宿は
ホテルブルーレーク大津