徒歩旅

Day1 下関駅-下関-長府-小月-小月駅 22km

**地図**

 夜明け前に自転車で出発し、最寄り駅へ。引っ越してもうすぐ1年になるのに、最寄駅から列車に乗るのは初めてである。駅までの所要時間は読めず、駅が見えた時に列車がすでに到着していてかなり焦った。実際には単線なのですれ違いの為に早く着いていただけ。
 日帰りで徒歩旅をするため、横浜に住んでいた頃もよく5時頃の始発に乗っていた。今回も始発だが、時間は6時台である。朝は楽だが、歩き始めるのが遅くなるのが非常に困る。出発地点である下関駅に着いたのは10時台だ。
 山陽道の起点は諸説ある。そもそも時代によって変わるものであり、厳密に考えても正解などないこと。今回は子供の頃眺めていた地図に従って、唐戸市場近くの亀山宮スタートを考えていた。色々調べると、江戸時代にはもっと下関駅寄りにある永福寺下に一里塚があり、その前から九州に渡る船が出ていたので、そこを山陽道の起点として考える人の方が多いようだ。亀山宮の下にある山陽道碑が建てられたのは明治になってからで、その頃に亀山宮の前に船着場が移転していたようだ。いずれにせよ下関駅から歩くので、両方行ってみることにする。
 下関駅を出て、飲み屋街のような道を通り、しばらく歩くと永福寺参道前に着く。ここを目指して歩いた人の記録には、『目印になるものもなく寂しいゴール』とあった。しかし、真新しい「山陽道起終点一里塚跡」の碑が出来ていた。徒歩旅をする人の要望でもあったのだろうか。よしここをスタートとしようと気合が入った。
16/03/05 10:48:50
 下関は街なので旧山陽道といっても特に古いものが残っている訳ではない。案内板の整備は進んでおり、明治維新に興味がある人などは歩いて楽しいだろう。次の写真は、1920年に建てられた山口銀行の初代本店。現在はやまぎん資料館として無料公開されている。時間があれば見たいところだが、予定のコースを終電までに歩くのがきつい日なので我慢した。
16/03/05 10:49:52
 予定が変わって永福寺からのスタートとなったが、予定通り亀山宮にも立ち寄る。亀山宮は山陽道の南側の高台にある。境内からは対岸の九州が良く見える。明治初期の写真を見ると下の写真の階段下が船着場となっていたようだ。
16/03/05 11:04:58
 階段を下りてすぐ左にある山陽道の碑。この脇に山陽道の起点であるとの案内板があったはずなのに撤去されていた。永福寺が正しい起点という認識のもと、永福寺に新しい碑が建てられ、ここの案内板が撤去されたということか。亀山宮の公式サイトには今もここが山陽道の起点だとあるのに・・・。
16/03/05 11:06:10
 鳥居に対して山陽道碑と逆側に『床屋発祥の地』のモニュメントがあった。鎌倉時代に『我が国初の結髪所』が下関で開かれたのだという。その建物に立派な床の間があり、そこから床屋という言葉が生まれたのだとか。
16/03/05 11:06:40
 厳密に山陽道を歩くのなら階段を登り直し、亀山宮の北側の道を進むべきだが、目の前には下関の観光には欠かせない唐戸市場がある。いくら時間がなくてもここは見ておきたいところだ。入ってみると案の定観光客だらけ。それを目当てに海鮮が所狭しと並んでいる。
16/03/05 11:13:28
 市場で弁当などを買って、海を見ながら食べている観光客が大勢! 私も欲しくなって、フグのから揚げを買って食べながら歩いた。
16/03/05 11:17:50
 旧道に戻る時間が惜しいので市場前の車道を進んだが、本陣跡の看板があり、旧道に戻る。この本陣は坂本龍馬が数年間暮らした場所だ。
16/03/05 11:22:18
 ふく料理の老舗である春帆楼が本陣の裏手にある。1894年にはここで日清講和会議が開かれ、日清講和条約(下関条約)が締結された。
16/03/05 11:25:08
 春帆楼の隣にあるのが赤間神宮。1185年に壇ノ浦の戦い亡くなった安徳天皇陵がある。
16/03/05 11:26:18
 また同じく亡くなった平家一門の墓もある。
16/03/05 11:30:58
 耳なし芳一の逸話で知られる寺がここであり、現在は平家一門の墓の前に耳なし芳一像が安置されている。
16/03/05 11:31:22
 壇ノ浦の辺りは崖が海に迫っていたため、山陽道は内陸部を迂回していた。古い地図を見れば旧道が分かるが、1973年に開通した関門橋建設とともに抜けられなくなっており、今はこの橋の下をくぐるしかない。
16/03/05 11:39:58
 壇ノ浦といえば源平合戦、壇ノ浦の戦い。ここで栄華を誇った平家が滅んだ。
16/03/05 11:49:06
 源平合戦ほど有名ではないが、壇ノ浦は下関戦争の舞台でもある。長州藩がイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国と戦ったというのだからすごい。1863年と1864年のことである。
16/03/05 11:51:48
 壇ノ浦で国道から離れ、内陸部の坂道を登り、火の山公園のロープウェイ駅へ。この辺りから再び旧道である。展望台はすぐ下の木が大きくなり過ぎていて、景色は今一歩だった。もともとの道は標高を下げることなく続いていたはずだが、今は私有地を強引に侵入しない限り、一旦国道近くまで降りねばならない。
16/03/05 12:19:10
 順調に歩を進め、茶臼山の裏側を歩いていた時に、パトカーが止まり、職務質問を食らう。時間との戦いが続いていたので、がっくりきた。変わった旅の仕方を色々してきたので過去にも何度か職務質問を食らっており、奴らが中々解放してくれないのを知っている。パトカーが止まり、待ち構えているのを見た瞬間に今日の計画だった厚狭まで歩くのは諦めた。終電が早いのでどうしようもない。厚狭の手前にあるJR駅は16キロも手前、がっくりである。頭に来たので、警官にはかなりの悪態をついてしまった。何のために観光も早々に歩き続けていたのやら。しかし、今回の警官も嘘ばかりついてたなあ。
 解放されてすぐに長府に着く。最初の宿場町だ。16キロも予定が短くなれば時間は余るので、予定外の功山寺に立ち寄る。しかし、まだムカついた気分が納まっておらず、案内板の文字も頭に中々入らない。
16/03/05 13:19:38
 次に行ったのが毛利旧邸。有料の施設で休む場所もありそうなので休んで落ち着こうと思った。しかし、毛利家といえば長州の殿様、思い込みで江戸時代のものかと思っていたが、明治36年の建物と分かりがっかり。
16/03/05 13:28:52
 毛利旧邸の裏手に土壁で知られる古江小路がある。山陽道から一本外れた裏道である。写真の通りできれいな通りだ。ここでやっと落ち着いてきた。
16/03/05 13:34:20
 正円寺の大銀杏は樹齢1,000年と伝えられている。幹から乳のように垂れたものが幾本もある。気根(きこん)というものだそう。
16/03/05 13:43:08
 長府を抜けるともうあまり見どころはない。食事をする場所もなくなってしまった。旧道沿いなのでコンビニもない。仕方がないので一旦国道に出て、昼食をとる。時間が余っているので1時間以上店で休んでしまった。
 下関といえばふく(ふぐ)で、今日は色んなフクの写真を撮った。その中で一番気に入ったのが、下水の蓋に描かれたふく。
16/03/05 15:45:22
 小月までずっと裏道が続いた。狭い道なのに車が多いのは残念だったが、信号がほとんどないのでまずまず歩きやすかった。しかし、駅への分岐に看板もなく、駅をかなり通り過ぎてしまう。それでも十分に予定よりは早い時間に山陽道初日の徒歩旅が終了。距離は短いのにかなり疲れた。予定通り厚狭まで歩いていたらやばかったかもしれない。
本日の距離 22km
山陽道の合計距離 22km