徒歩旅

Day7 嬉野-彼杵-千綿-松原-大村 32㎞

**地図**
 まだ暗い5時半に出発する。宿からすぐの場所に「シーボルトのあし湯」がある。昨夕到着前に訪れた「湯っつら広場」の足湯よりも人気のある足湯で、夜明け前のこの時間でもライトアップされ、足を浸けることができる。
22/04/05 05:45:48
 朝6時からということで営業前だったが、すぐ近くには公衆浴場であるシーボルトの湯もあった。さらに進むと「湯宿広場」にも足湯がある。こちらは普通の足湯だけでなく、足蒸し湯まである。温泉ミストによる「足蒸し湯」は日本初だということだ。嬉野温泉は色々設備が整った面白そうな温泉地で、また来たいと思う。
22/04/05 05:51:16
 佐賀市の中心部同様に嬉野宿の中心部もコの字型に街道が神社に引き寄せられている場所があった。
22/04/05 05:52:52
 温泉街を抜けると街道は街よりも少し高い山際になり、並行して水路が作られている。谷を越えるところは水道橋にまでなっている。
22/04/05 06:08:22
 塩田川を越え、国道34号を横切って、階段を上ると民家の庭先に出る。その先からはお茶畑の中だ。この辺りの茶畑にもファンが付いている。
22/04/05 06:46:30
 もう一度国道と交差した先に集落があり、その外れに俵坂番所跡があった。佐賀藩と大村藩の境にあたり、キリスト教徒が多かった大村藩からの出入りが厳しく取り締まられたという。
22/04/05 07:03:26
 番所跡のすぐ先の峠が、佐賀藩と大村藩の境であり、現在は佐賀県と長崎県の県境となっている。
22/04/05 07:10:48
 嬉野近辺は鉄道路線から外れていたが、今年秋に開通する長崎新幹線はこのルートを通っており、嬉野温泉には初の鉄道駅ができることになる。地元では色々と期待されているようだが、黒字化せずに維持が大変になるんじゃないかなと心配になる。
22/04/05 07:19:10
 下りの道は古い道筋が残っているところと新しい車道を迂回せねばならないところが入り組んでおり、事前に調べた地図を見ながら慎重に進む。中には事前に調べた時には見つからなかった藪の中に長崎街道の看板があるところもある。鳥越一里塚は入る場所は気がつかず、出口に道標があったので入ってみたが、完全な薮になっており、倒れた竹を動かしながら進むとようやく一里塚跡に到着した。私有地で長らく道がなくなっていたところを再整備して看板を立てたのが2009年。10年以上経て再び通行が困難になっている。抜けられるだろうと藪を進んだが、結局断念し、登ってきて道を戻ることになってしまった。
22/04/05 08:07:12
 さらに進むと大きなクスノキがあった。看板には「旧大楠跡及び大楠」とある。江戸時代には長崎街道一といわれた大楠があり、多くの記録が残っている。オランダ人医師のシーボルトは江戸に上る途中でこの機を測り「周囲16.88メートル、直径5.347メートル、中の空洞は8畳敷きの広さで15人が座れる」を記録している。明治20年代にこの大楠を切り倒されたが、その時に出てきた芽が成長したのが現在の大楠となっている。これでも樹齢は100年以上。
22/04/05 08:21:44
 シーボルトの著作の挿絵を見ると今の樹よりもずっと太かったことが良く分かる。この図から当時の大楠は樹齢が3500年以上であっただろうと言われている。
22/04/05 08:22:44
 坂を下りきって平野部に入ると馬立場跡がある。
22/04/05 09:18:48
 さらに10分ほど歩くと彼杵(そのぎ)宿に入ってくる。江戸時代の初頭、キリスト教が追放され、大村藩内も仏教への改宗が進められた。仏教徒のあかしとして1664年に十五基の宝塔が建立された。その一つが川原千部塔で、彼杵宿の入り口近くにある。
22/04/05 09:29:30
 彼杵宿は元禄年間に築港された彼杵港中心に江戸時代に栄えていた。ここから長崎の時津へ船が出ており、この船を使って長崎へ行くのも人気のルートだったようだ。港のところで左折し、海の近くを南下してゆく。
 次の千綿(ちわた)宿は商工業が栄えた宿場町だった。写真の旧土肥家は明治末期に建てられた豪商の家。
22/04/05 10:12:44
 現在の国道は平坦な海沿いの道となっているが、江戸時代は海際に平地があまりなかったようで、旧街道の残る場所は基本的に山合いの道のようになっている。国道を歩くより楽しい道が続くが、藪になっているところもあるし、行き止まりのところもあり、旧街道を忠実にたどるのは難しい。
22/04/05 11:58:04
 海沿いの道のはずがほとんど海は見えず。たまに見えると嬉しくなって写真撮ってしまう。
22/04/05 12:09:42
 松原宿に差し掛かる辺りに墓地があり、相撲取りの墓が3基ある。江戸時代後期のものだが、力士の詳細は分からないそう。
22/04/05 12:38:00
 松原宿の中心部にある旧松屋旅館は江戸時代は休憩所として利用され、明治から昭和にかけては旅館として営業していた。
22/04/05 12:43:18
 大村城下町に近い松原宿には本陣や脇本陣はなく、ここにあった茶屋が諸大名の休憩地に充てられていたという。
22/04/05 12:45:06
 松原でようやく昼食をとる。朝の出発が早いので昼は早くから空腹になるのだが、今日の道は国道から微妙に離れており、コンビニに行くのも面倒でここまで我慢していた。足の調子も良くなり、予想以上に早くここまで来たので昼休みはゆっくりとった。
 大村の宿チェックイン開始時間が16時だが、そのまま進むと15時過ぎに着いてしまいそう。どうしようかと迷っているとちょうどよい公園があり、昼寝をした。
 宿の前に着いたのがちょうど16時だったが、直前に休んで元気だったので、もう少し歩くことにした。宿近くから街道はアーケード街に入り、そこが大村宿の中心部だ。
22/04/05 16:02:28
 アーケードの出口に旧本陣跡の看板。古い建物は何も残っていない。
22/04/05 16:08:06
 このまま次のJR駅である岩松駅近くまで歩いても良いかと迷ったが、列車で戻るのも面倒だし、最終日の明日はこの調子なら大丈夫だと考えて大村で本日の徒歩旅を終えることにした。回り道をし、大きなスーパーで夕食の買い出しをした後、宿に向かう。
本日の距離 32km
長崎街道の合計距離 225km