Day5 佐賀-牛津-肥前山口 18㎞
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地図**
前回足を痛めて中断した佐賀から長崎街道の徒歩旅を再開する。ひと月休んだが、きちんと治っていない足がまだまだ心配だが仕方なし。
佐賀駅に12時半頃着いて歩き始める。1キロほど歩いて、長崎街道の前回中断した龍造寺八幡宮に到着する。前後が東西の直線である長崎街道は、お宮さんお前だけコの字型にお宮さんに近づいていたらしい。コの字型の部分はお宮さんの境内なので、参拝し、旅の成功を祈願する。
歩いていると数多くのえびす像が街道沿いにある。なんと佐賀市内の恵比須像は828体(2015年時点)もあり、日本一だそう。
アスファルトの道を進んでいくと多布施川に古い石の橋が架かっている。元は1764年に善左衛門さんが自費で架けた橋で、善左衛門橋(ぜんじゃあばし)と呼ばれている。現在の橋は明治33年に修復された時のものだが、橋脚の一部はオリジナルのものだそう。
築地反射炉(ついじはんしゃろ)跡を見ようと少しだけ長崎街道跡から離れ、小学校の敷地に入る。幕末期、鉄製の洋式大砲を鋳造するため佐賀藩により築造され、1850年に日本初の実用反射炉として完成、1851年に日本で初めて鉄製大砲を鋳造した場所だ。2015年に世界遺産登録された「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成要素入りを目指し、2008年から発掘調査されたが、本体の位置など不明な点が残り、2012年に近代化産業遺産群への追加は断念されている。現在あるのは縮小復元模型とカノン砲の復元模型のみ。
長崎街道に残る石の道標には指差しの図が付いていることがある。他の街道では見かけなかったものだし、新しそうに見える道標が多いので、伝統的なものではないだろうと思っていた。しかし、ここにある道標には江戸時代のものであるという説明書きがあった。すごく印象に残ったので、後から画像検索してみたところ、指差し道標は全国に存在している。明治時代に流行があり、多くはその頃のものだが、中には江戸時代のものもある。しかも、自分が歩いた山陽道の写真も出てきて、あれ?
八戸町辺りになると伝統家屋が多くなってくる。旧枝梅酒造は、1854年創業の造り酒屋で、2009年にその役割を終えた。江戸時代から続く建物群は保存され、現在は資料館や休憩所、カフェなどになっている。
旧枝梅酒造の斜め向かいには、久保薬品という薬局がある。発祥は、江戸初期、藩御用達のくすり屋として漢方薬「牛黄清心圓」の製造販売を行っていた佐賀城下で最も古い生薬屋である。
佐賀城下の西端に当たるのが、本庄江にかかる高橋である。ここまで歩きだしてから1時間半、佐賀城下は予想以上に広かった。
嘉瀬川を渡ってすぐの左手にかなり古そうな建物があり、写真だけとって素通り。すぐその先の空き地で休憩し、この日何度目かの足のマメの水抜きをした。今回は歩き出してすぐから前回のマメ周辺に新しいマメが出来ている。痛いが、爪は今のところ大丈夫なので何とか進めている。休憩ついでに調べてみると先ほどの建物は、グーグルマップに「千鳥饅頭 発祥の地」とある。1630年にこの場所で創業した菓子屋があった場所のようだ。今残る建物自体は明治後期に建てられた豪農の家だが、千鳥饅頭を生み出した千鳥屋としても使われていたよう。千鳥饅頭なんて知らないなと思っていたが、千鳥屋は「チロリアン」で知られるメーカーでもあり、「チロリアン」ならよく食べていた記憶がある。
佐賀宿に続く牛津宿には15時半頃に到着する。ここまで11キロに3時間は時間がかかりすぎているが、マメが出来てしまったので仕方ない。牛津宿には伝統家屋はなく、見どころになるようなものがなかったので素通りし、JR牛津駅で一休み。
街道の北側にカンカン石がある。磁鉄鉱を含むサヌカイトと呼ばれる石で、石同士でたたくとカンカンと金属音がする。江戸時代にはサヌカイトを配置した庭園があり、名所となっていたそうだが、度重なる道路拡張で多くのサヌカイトは失われてしまっている。たたく用の石があったので、たたいてみると確かに金属音がして、普通の石と違うことが分かる。
本日のゴールは肥前山口駅。宿は佐賀駅前にとってあるので、ここからは列車で戻る。
本日の距離 18km
長崎街道の合計距離 158km