徒歩旅

Day10 (西小坂井駅-)舞阪駅-舞阪宿-新居宿-白須賀宿-二川宿-吉田宿-伊那駅(-東岡崎駅-) 35.0km

 久しぶりに会う友人宅に泊めてもらったので、出発は友人の出勤時間に合わせいつもよりも遅くなった。昨日の舞阪駅に戻ってきたのは10時過ぎである。あまりの暑さに危険を感じ、いきなり駅近くのスーパーに入り、1.5リットルのカルピスソーダと昼食用の弁当を買った。水も大量に飲み、いよいよ歩き始める。最初は松並木が続いており、日陰も多かったのでスタートを切ったものの、異様に暑い。
舞阪宿松並木
 1キロほど歩いたところで、松並木が途切れ、そこに公園があった。ベンチがちょうど日陰だったので、まだほとんど歩いていないが、休憩し、今日の計画を練り直すことにした。数キロ先の弁天島で食べるつもりだった弁当から汁がたれていたので、ここで昼食。カルピスソーダ1.5Lも一気に飲み干してしまった。この暑さで歩いてはさすがに倒れそうなので、藤川宿までの計画を断念し、どこかで昼間をやり過ごすことにした。今いる公園の日陰は狭いので、仕方なく進むことに。写真は公園にあった浪小僧の像、海底に住んでおり、海がしける時に太鼓をたたいて知らせてくれるそう。
舞阪宿波小僧
 舞阪宿に入る時点で11時20分、今日はまだ2キロも歩いていない。宿の入口には石垣が残っていた。ここまで歩いてきてこういうのが残っているところはなかったので、ここの宿は色々残ってるかと期待したが、正直期待外れ。休む場所もない。石垣は復元なのかも。
舞阪宿見付石垣
 舞阪宿で唯一の見所といえるのがこの脇本陣だが、月曜日は休み。旧東海道では唯一の脇本陣の遺構だそうです。
舞阪宿脇本陣
 舞阪宿は浜名湖畔の港町で、ここから新居宿までは「今切の渡し」と呼ばれ、昔の人々は船で渡っていた。今は途中の弁天島が埋め立てで拡張され、橋が架けられているので、歩いて渡ることになる。写真は、雁木(がんげ)と呼ばれる当時の船着き場から見た弁天島方向。
弁天島
 弁天島の海水浴場にある休息所は、風通し良く、気持ち良かったので、ここで一番暑い時間をやり過ごすことにする。今日の歩きはまだ3キロ強。どこまで行けることやら。地図などを眺めていたが、いつしかうとうと。
弁天島海水浴場休憩所
 ふと風が涼しくなった気がした。おそらく気温が体温よりも低くなったものと思われる。時計を見ると13時半、まだ歩き出すには早いなと思ったが、出発を考え始めたら、中々時間が経たなくなってしまい、歩き始めることに。
 先ほどよりは涼しいし、風もきつい。これなら歩けそうだ。しかし、浜名湖を渡る橋の上で、帽子が飛んで行ってしまった。うーん。今まで何度か帽子をかぶったことはあるが、何度も1日で失くし、もう10年以上前に帽子は止めていた。今回は昨日からかぶっていたので2日もったが、やっぱり駄目だー。
 新居宿は、今切りの渡しの船着き場からすぐに関所があった宿場町。この関所は100年間、幕府直轄として最高の警備体制が敷かれていた。現在の関所は1854年の地震・津波で倒壊したため、1855年に建てられたもので、明治以降、学校・町役場として使用され日本で唯一建物が現存している関所である。しかし、残念ながらここも月曜が休館日だった。結局、舞阪宿-新居宿-白須賀宿の3宿にある見学場所はすべて月曜休館。曜日をずらしておいてくれれば月曜に来た人も少しは見ることができるのに・・・。写真の手前は、渡船場で、平成12年の発掘調査で見つかり、復元したもの。奥が関所の建物である。
新居宿関所と渡船場
 宿場町の面影の少ない舞阪とは対照的に、この新居宿には旅籠や本陣などがたくさん残っている。写真は内部公開もしている旅籠である紀伊国屋だが、ここも月曜休館。
新居宿紀伊国屋
 新居宿から白須賀宿を経て二川宿に着くまでは公共の交通機関がない。途中に食事がとれる場所もほとんどないと聞いていたので、今日は慎重を期して、暑い昼間は歩かないでいたのだ。新居宿にいるうちに飲み物の補充はしておこうと思っていたが、新居宿も入り口手前には店があったが、その先は開いている店がなく、失敗。いつしか宿を抜け、暑い農村地帯へと進んでいた。途中からまた松並木。ここの松並木は歩道に枝を張り出しており、日陰をつくってくれていたので本当にありがたかった。
松並木
 白須賀宿は坂の上にあるが、坂を登り出す前から古い家並みが続くようになった。この辺りは元の宿場町だったが、1707年の津波で壊滅的な打撃を受けたため、宿場は現在地に移動したのである。
 いよいよ有名な潮見坂。街道一の景勝地として知られており、西国から江戸に向かうときに初めて太洋と富士山が見える場所として旅人の詩情をくすぐったとか。今でもその眺望は変わらずと案内板にあったため、良い景色の場所を見逃すまいと何度も振り返ったが、何度振り返っても木々の合間に海が見えるのみ。富士山なんて本当に見えたのだろうか。坂を登りきったところに白須賀宿歴史拠点施設「おんやど白須賀」という資料館兼お休み処があったが、ここも月曜休み。この辺りでトイレがあると記されているのはここのみなのでトイレだけでもと探すが外にはなかった。ここからの展望も期待していたが、入れず。しかし、もう少し歩いたところに潮見坂公園という場所があり、そこから海が大きく見えた。でも富士山は方向も分からない。
白須賀宿からの太平洋
 白須賀宿は古い家並みが残り、のんびり歩くには悪くないところだが、トイレに行きたくなってしまっており、急ぎ足になってしまった。
白須賀宿
 白須賀宿と隣接し境宿という間の宿があった。間の宿が隣接しているのも不思議だが、白須賀宿が移転したためだとしたら納得がいく。境宿は、遠江の国と三河の国の境にあることから境宿という名がついたそう。境宿を越えると小さな川があり、これが遠江と三河隔てる境川、同時にここから愛知県となる。
 愛知県に入ってすぐに国道1号線に合流、そしてコンビニがあった。まずはトイレ、そのあとここで一休み。1リットルのドリンクを一気飲みする。昼食が早かったので何か食べておこうと弁当類を見るが、食欲がない。普段は食べないバナナを購入。運ぶのは嫌なので3本一気食い。
 国道1号は交通量が多く、ほとんど見るべきものもなく、退屈な歩きが続いた。日が傾いてきた頃に、1号線を離れ、二川宿へ入ってゆく。さっきまでのうるさい国道沿いとは一変、タイムマシンで移動したかのような古い家並みが細い街道の両側に続いている。一般民家にも二川宿とかかれたのれんが掛けられており、街ぐるみの取り組みが伝わってくる。今はここも豊橋市なので消火栓蓋などは、豊橋市と同じデザインである。豊橋の友人に豊橋の花火大会に誘われて、手筒花火に興味を持ったところだったので、この手筒花火のデザインはうれしかった。
手筒花火の消火栓蓋
 この宿には古い建物が本当に多いが、その中でも一番の見所とされるのが、馬場家本陣という本陣跡。この二川宿本陣は、文化4年(1807)から明治3年(1870)まで本陣職を勤めた馬場家の遺構で、改修復原工事により主屋・玄関棟・書院棟・土蔵等を江戸時代の姿に復元し、一般公開している。時間的に遅かったこともあるが、ここも月曜日が休館日。週末に休みを付けて三日歩く人も多いだろうに、せめて休日は週半ばの曜日に出来ないものか。東海道で本陣の建物が残るのはここと草津の2ヶ所しかないそうである。
二川宿本陣
 二川を出る頃には日も暮れ、暗くなってきた。今日は夜中の0時に東岡崎を出る夜行バスで帰ることになっている。初日に磐田まで歩けなかったことで、今回の東岡崎まで歩く計画は崩れており、行けるところまで行って電車で東岡崎に向かうしかなくなっている。どこまで歩けるのか分からないが、せめて今朝電車に乗った友人宅の最寄り駅は越えたいところ。午後から歩き出してもそれは余裕だろうと思っていたが、予想以上に時間がかかっている。
 吉田宿である豊橋中心部に着く頃に20時半となっていた。豊橋で夕食をとって電車に乗ろうかとも考えたが、もう少しで友人宅の最寄り駅に近くなり、時間的には余裕がある。豊橋駅が離れているのもあって、もう少しだけ頑張ることにした。
 次回は豊橋の花火大会を見てから再開することに決めたので、吉田宿はその時に見れば良い。目的地は御油宿より手前なので、夜で風景が良く見えなくても良いだろうと考えたのだが、下地町の辺りは古い家並みが残っており、写真撮影にトライ。デジカメが壊れた影響がこういう悪条件下では如実に表れてしまう・・・。
豊橋市下地町
 残りもう数キロ、岡崎で1時間半くらいは飲み屋に入れるななどと思いつつ、最後の力を振り絞って歩いていたが、足の指先がしびれてきた。残り1キロ、一気に行きたかったが、前回両足の親指を痛めてしまったこともあり、路上に座り込み足のチェック。見た感じは大丈夫だが、しびれが酷くなり、くるぶしから下全体に広がって、靴が履けなくなってしまった。マッサージをしても良くなる気配はない。どうしようもないので靴を履くのを諦め、サンダルで最後の1キロを歩いた。
 何とか駅に到着、すぐに電車が来たので乗り込んだが、すごく寒く感じて体が震えてきた。国府駅で特急に乗り換えたが、さらに寒気がする。その時すでに両手両足の全体にしびれが来ており、それが顔面にも広がってきた。熱中症だ。気を失うかもしれないと思って近くに乗っていた人に「東岡崎で下車したいが体調が悪く倒れるかもしれないので、そうなってたら起こしてくれ」と頼む。次第に呼吸が早くなり、手足はしびれだけでなく痙攣も始まった。しびれが胴体にも及び始め、これはもうダメだと車掌を読んでもらう。そして駅に救急車を手配してもらった。東岡崎で下車し、駅員の控室まで何とか歩いて座り込む。暖かだったこともあり、徐々にしびれや痙攣が収まってきた。
 救急隊員が到着し、救急車に移動。胴体のしびれは消えており、手足のしびれは残るが痙攣は治まったと伝えるも、救急隊員にまだ少し痙攣はしていると指摘される。しかし、快方に向かってきたのは確かで、それならば病院に運ばれたくない。心電図をとって、血圧や脈拍、熱などを測る。病院に行った方が良いと勧められたが、検査の数値は危機的なものではないらしい。意識がはっきりしている場合には搬送辞退書を書くことによって、救急隊員側も搬送義務はなくなり、搬送を強いることはないという。搬送辞退書を書こうとしたら手の痙攣が収まっておらず時間がかかったが、何とか手続きは完了。予定通り自力で帰宅の途につくことができた。
本日の距離 35.0km
合計の距離 315.1km + 35.0km = 350.1km
本日の出費 交通費3410円+食費1651円=5061円

*熱中症で倒れてしまった。
 救急隊員のアドバイスによると水分だけでなく、塩分の補給をしないとだめなのだとか。食事もきちんととらないといけないという。今日の午後はバナナ3本食べただけだったのが敗因か。暑い時間を避けて歩いたつもりなのにこんな事態になり、残念無念。夏歩くなら夜歩きに徹するか、それとも塩分をとりながらなら大丈夫か。いづれにしても計画は練り直さねばならない。
 翌朝のニュースによると、熱中症で救急搬送された人数はこの夏最多で、中でも愛知県が一番多かったのだとか。
 熱中症の後遺症か、1時間ほど足を下にし机に向かうだけで足がむくみ痛くなるようになった。この日記を完成させた8日後の今も続いている。